2015年12月27日日曜日

「恵みのリストアップ」

詩篇103篇1~22節
2015年12月27日 第4聖日
牧師 長江忠司

 主からいただいた恵みを忘れず、恵みを覚えて主をほめたたえるようにと教えられています。どの様な点で、恵みを覚えるべきでしょうか。
 第一に、主が全ての咎を赦して下さったことです。ダビデは神と人とに対して罪を犯しましたが、主はその罪を赦されました。彼はそれを何よりも感謝したのです。私たち もかつては罪に支配されてさばかれる定めにありましたが罪赦されました。その恵みを覚えて最も感謝するべきです。
 第二に、主が私たちの命をお守り下さったことです。ダビデは数々の困難にあいまし たが、その中で主の守りをいただきました。私たちも今年一年様々なことがありました が、その中で主の守りをいただきました。その恵みを思い返して感謝すべきです。
 第三に、主が私たちの人生を良いもので満たして下さったことです。ダビデの人生においても、全てが益となり良きもので満たされました。私たちの人生においても、苦しい事がありますが、主は全てを益とされ良きもので満たして下さるのです。
 慌ただしく一年を終えるべきではありません。今年一年の恵みをリストアップし、主をほめたたえて新たな一年を始めるようにしましょう。

<聖書のことば>
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩篇103篇2節

2015年12月20日日曜日

「喜びの知らせ」

ルカの福音書2章8~20節
2015年12月20日 第3聖日
牧師 長江忠司

 多くの方がただのイベントとしてのクリスマスを過ごしておられますが、クリスマスの本当の意味を知って恵みを受けていただきたいと思います。まず、神と人間との関係について見ましょう。
 第一に、神は私たち人間を愛しておられます。神は私たちを造られ、尊い存在として見て下さっています。
 第二に、私たち人間は皆罪人です。罪の無い人は一人もいません。
 第三に、神は罪人をさばかれます。神は罪を見過ごすことができません。
 第四に、神は私たちを救う為にお越し下さいました。人間の身代わりに死ぬ為に、主はこの地上にお越し下さいました。
 次に、主がお生まれになった時の人間の神への応答について見ましょう。
 第一に、無関心や拒絶した人がいました。イエス様が生まれる場所は無かったことがその事実を表しています。
 第二に、みことばを信じて応答した人がいました。羊飼いたちや東方の博士たちがそうでした。その結果、彼らは喜びに満たされました。
 私たちもみことばを信じ、主を迎え入れ応答するものでありましょう。そのような者にこそ、主の祝福は豊かに注がれるのです。

<聖書のことば>
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
ルカの福音書2章10節

2015年12月13日日曜日

「苦難の時に主が語られたこと」

ゼカリヤ書2章1~13節
2015年12月13日 第2聖日
牧師 長江忠司

 バビロンからエルサレムに帰還したユダの民は敵の妨害にあい、長い間工事を中断しなければなりませんでした。主はそんな彼らにゼカリヤを通してみことばを与えられたのです。その語られたことについて学びましょう。
 第一に、主の守りを信じて頼りなさいということです。あなたがたに触れる者はわたしの瞳に触れる者だと言われました。主はご自分の瞳の如くに私たちをお守り下さいますので、主を信じて頼るべきなのです。
 第二に、主の側に立ちなさいということです。バビロンを離れてエルサレムに逃れるように言われています。私たちもどっちつかずではなくて、本来いるべき神の側に明確に立つべきです。
 第三に、主の前に心を静めなさいということです。弱い人間が主の前に静まるべきことが教えられています。主が御座から立ち上がり地上に来られるからでした。私たちも自分の弱さを知り、主の前に静まる必要があるのです。
 私たちも苦難の中に入れられることがあります。しかし、その時こそ、主の前に静まりましょう。主は私たちと共にいてお守り下さることを信じて頼るものでありましょう。

<聖書のことば>
すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。
ゼカリヤ書2章13節

2015年12月6日日曜日

「イエスを売り渡したユダ」

マルコの福音書14章10~11節
2015年12月5日 第1聖日
牧師 長江忠司

 祭司長たちはイエス様を殺そうと決めておりましたが、弟子のユダが主を裏切り、彼らに売り渡しました。まず、ユダの失敗について見ましょう。
 第一に、間違った期待をしていました。彼も主がすぐにでも地上的な王国を建てると考えていたのでしょう。偉くなることを期待していました。
 第二に、間違った神に仕えていました。彼は主の弟子でありながら、いつしか富に心を支配され、富を神として仕えるようになっていました。
 祭司長たちはユダに銀貨30枚を渡しました。その意味するところは何でしょうか。一つは奴隷の価格でした。祭司長たちはイエス様に対して、敢えて律法で定められていた奴隷の値を付けたのです。もう一つは、預言されていたことでした。ゼカリヤ書にその預言が記されています。主は全てをご存知の上で、自分をいけにえとしてお売りになられたのです。
 主を軽んじ売り渡してしまったユダは悲惨な死に方をしました。私達は絶対に彼に倣ってはいけません。彼を反面教師として歩むようにしましょう。

<聖書のことば>
ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。
マルコの福音書14章10節

2015年11月29日日曜日

「マリヤのささげもの」

マルコの福音書14章1~9節
2015年11月29日 第5聖日
牧師 長江忠司

 ベタニヤのシモンの家での出来事でした。マリヤは純粋なナルドの香油をイエス様の頭に注いだのです。彼女の信仰から学びましょう。
 第一に、マリヤはしっかりとみことばを聞きました。マルタが慌ただしくしていた時に、マリヤは静かにみことばに聞き入っていました。イエス様は十字架の死について語られたことでしょう。それを聞き逃さなかったのです。だからこそ、埋葬の用意をする ことができました。
 第二に、マリヤは主の為に自分のできる最高をささげました。この香油は300デナリという非常に高価なものでした。弟子達は勿体ないと彼女を非難しましたが、彼女はそれだけ価値のあるお方と考えてささげたのです。
 第三に、マリヤはこの機会を逃しませんでした。主の死なれる時は近づいていました。彼女は埋葬の準備ができる機会を逃さなかったのです。
 私たちはみことばを聞く恵みにあずかっていますが、どれ程に真剣に聞き、感謝をもって応答しようとしているでしょうか。ベタニヤのマリヤの輝くような信仰に倣いましょう。

<聖書のことば>
この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
マルコの福音書14章8節

2015年11月22日日曜日

「イエスキリストの再臨」

マルコの福音書13章24~37節
2015年11月22日 第4聖日
牧師 長江忠司

 イエス様はオリーブ山において弟子たちに終末の預言を語られました。今日の箇所では再臨についてです。
 患難時代後半に荒らす憎むべき者が自分こそ神であると宣言し、自分に従わない者を迫害します。また、天変地異が起こり、多くの者が命を失います。また、世界の諸国がイスラエルに集結し最後の戦争が繰り広げられます。悲惨な状況が展開される中で、キリストが再臨されます。前回は空中に再臨されましたが、今度は地上に再臨され、千年間の御国を築かれるのです。このことを踏まえて、主は言われました。
 第一に、学びなさいということです。主はあらかじめ語って下さいました。私たちは今がどういう時なのかを学ぶ必要があります。
 第二に、みことばに目を留めなさいということです。全てのものはやがて朽ちてしまいますが、主のみことばだけは朽ちることがないのです。
 第三に、目を覚ましていなさいということです。主人はいつ帰って来るかわからないように、主もいつ戻って来られるのかわからないのです。
 やがて主はやって来られます。その時に備える賢い歩みを致しましょう。

<聖書のことば>
そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
マルコの福音書13章26節

2015年11月15日日曜日

「患難時代において」

マルコの福音書13章14~23節
2015年11月15日 第3聖日
牧師 長江忠司

 イエス様はオリーブ山で、患難時代について語られました。
 「荒らす憎むべきもの」について書かれています。ダニエル書9章を見ると彼、つまり反キリストがイスラエルと平和条約を結ぶことが書かれています。これをもって患難時代が始まります。しかし彼は3年半経った時に、一方的に契約を破棄して、神殿に座をもうけ自分こそが神だと宣言します。そして自分に従わない者に恐ろしい迫害を加えるのです。それ故に、人々は直ちに逃げるべきことが教えられています。しかしその日は長く続きません。患難時代の終わりがやって来て、主の再臨があるのです。これらを踏まえて、次のことを覚えましょう。
 第一に惑わされないように気を付けることです。神から出たものか悪魔から出たものかを見極めることです。
 第二に、神のご計画全体を覚えて歩むことです。私たちクリスチャンは携挙によって天に挙げられていますが、その前に周りの方々に主を証しすることが大切です。また、主の前に立つ時を想定して生活することが必要です。主はあらかじめ語って下さいました。賢く歩む者でありましょう。

<聖書のことば>
『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
マルコの福音書13章14節

2015年11月8日日曜日

「子供伝道の重要さ」

マルコの福音書10章13~16節
2015年11月8日 第2聖日
牧師 長江忠司

 本日は子供祝福式が礼拝で行われます。子供伝道の重要さについて学びましょう。何故、子供たちに伝道するべきなのでしょうか。
 第一に、イエス様は子供たちを大変愛されたからです。主のみもとに来るのを叱った弟子たちを憤る程に、主は子供たちを愛しておられました。
 第二に、子供の心は柔らかいからです。子供は大変素直であり疑うことを知りません。聞いてすぐに心に受け入れます。
 第三に、子供たちは悪の犠牲になりやすいからです。今多くの間違った教えと誘惑があり、子供たちが犠牲となっています。
 第四に、子供は将来の教会を形成するからです。子供はすぐに大きくなり素晴らしい働き手となります。
 第五に、子供の時に教えられたことは生涯影響するからです。たとえすぐに教会につながらなかったとしても、将来に主に立ち返ることが少なくないのです。
 子供伝道の為に私たちにできることはないでしょうか。主のみこころに従って、子供たちに福音を伝える働きをする者でありましょう。

<聖書のことば>
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
マルコの福音書10章13節

2015年11月1日日曜日

「迫害の中でも」

マルコの福音書13章9~13節
2015年11月1日 第1聖日
牧師 長江忠司

 イエス様は弟子たちの質問に答えて、未来に起こる迫害について語られました。ここから3つの点で教えをいただきましょう。
 第一に、迫害があると覚悟すべきです。キリストを信じる者に大きな迫害がやって来ると言われました。事実、紀元70年やその後に大迫害がありました。また終末の時代においても大迫害があります。
 第二に、迫害の先に希望があると覚えるべきです。迫害はありますが、それは証しの機会になると言われました。実際にこれまでの歴史においても、迫害下の証しによって多くの魂が救いに導かれました。迫害はただの苦しみで終わらず、その後に希望があるのです。
 第三に、迫害の中でも忠実であるべきです。本当の信仰者は困難の中でも主に信頼して忠実に歩み続けます。
 この世は悪魔の支配する所であり、今は終末の時代でもありますので、主のみことばに堅く立って歩もうとするなら迫害があります。しかし私たちをお救い下さった主に信頼し最後まで忠実に歩むようにしましょう。

<聖書のことば>
だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。
マルコの福音書13章9節

2015年10月25日日曜日

「モーセの言い訳」

出エジプト記4章10~17節
2015年10月25日 第4聖日
牧師 長江忠司

 主がイスラエルの民をエジプトから脱出させるようにとモーセを召された時、彼は幾つかの理由を挙げて拒もうとしました。
 第一に、権威の欠如です。彼はパロの権威がいかに大きなものであるかを熟知していました。だからこそ、自分には権威が無いと主張したのです。しかし、彼は天地万物を創造された偉大な神の権威を忘れていました。
 第二に、能力の欠如です。彼は語ることが苦手だったようです。しかし主はそんな彼に必要な助けと助け手を与えると言われました。主が私たちを召される時には必ず必要な助けも与えられます。
 第三に、適性の欠如です。彼は自分はふさわしくない、適性が欠如していると主張しました。しかし主の働き人として必要な適性とは能力や性格的なことよりも、謙遜と信仰が大切です。主はミデヤンの地で謙遜にされた信仰者モーセを召されたのです。
 主が私たちを奉仕や働きに召される時があります。その時に、これらを理由にして拒まないようにしましょう。偉大な主が共にいて下さいます。

<聖書のことば>
モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
出エジプト記4章10節

2015年10月18日日曜日

「一人の魂の大切さ」

マタイの福音書18章12~14節
2015年10月18日 第3聖日
牧師 長江忠司

 私たちは今日のプレイズコンサート特別集会に身近な方々をお誘いし祈ってきました。それは主のみこころにかなったことです。このたとえ話は神様の愛を教えています。
 第一に、神は一人の魂を尊び愛して下さっています。「一人だけだから良い」とは考えません。その一人の為に主は捜しに行かれます。
 第二に、神は忍耐深く愛して下さっています。「羊が自分で迷い出たのだから自業自得」とは考えません。どんなに聞き分けの悪い頑なな者であったとしても、主は憐みをもって忍耐深く愛し続けて下さるのです。
 第三に、神は尋ね求める程に、全ての魂を愛して下さっています。神の愛は黙って待つという愛ではありません。ご自身が出て行って捜し求める愛です。主は天の御座を捨てて地に下り私たちをお救い下さいました。

<聖書のことば>
そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
マタイの福音書18章13節

2015年10月11日日曜日

「霊的成長に必要な習慣」

ペテロの手紙第二3章17~18節
2015年10月11日 第2聖日
牧師 長江忠司

 イエス様を信じた人は皆同様に救いをいただきますが、霊的成長は人によって異なります。そしてそれは習慣による所が大きいのです。どの様な霊的習慣が大切なのでしょうか。
 第一に、みことばを読んで養われることです。日々みことばによって養われているかどうかが大きな分かれ目となります。
 第二に、主に祈りつつ歩むことです。もし祈らないなら、生きた主との交わりに欠けて多くの祝福を逃すことになります。
 第三に、教会の集会に積極的に参加することです。本日はCSカミングデーですが、教会学校に参加することで確実に霊的に強められることができます。
 第四に、教会の交わりを大切にすることです。一匹狼的に歩むならば霊的に危険な道を歩むことになります。皆、交わりが必要なのです。
 第五に、幻を持つことです。幻が無いと確かな成長をいただくことはできません。それぞれが自分の習慣を省みるようにしましょう。

<聖書のことば>
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。
ペテロの手紙第二3章18節

2015年10月4日日曜日

「神殿崩壊と終末の預言」

マルコの福音書13章1~8節
2015年10月4日 第1聖日
牧師 長江忠司

 イエス様は神殿崩壊と終末の預言を語られました。
 まず、神殿崩壊の預言です。ヘロデ王により神殿が工事されており、50年近くが経過していました。壮大で立派な建物でしたので、弟子たちが驚嘆したのも無理はありませんでした。しかし主はその神殿が崩壊すると預言されたのです。実際に紀元70年にローマにより神殿は崩壊しました。
 次に、終末の預言についてです。聖書にはこれから先に起こるプログラムについて書かれています。まず教会の携挙があり、次に患難時代、そしてキリストの再臨と千年王国です。携挙に関してはその前触れとして起こるものは記されていませんので、いつ起きてもおかしくありません。ここでは患難時代の前兆について書かれています。それは世界戦争と地震と飢饉です。これらが産みの苦しみの初めとなります。
 私たちはこれらを踏まえて何をおぼえるべきでしょうか。第一に見えるものに信頼すべきではないことです。第二に、終わりの時に備えることです。終わりの時が近づいている今、賢明な歩みをするように致しましょう。

<聖書のことば>
すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
マルコの福音書13章2節

2015年9月27日日曜日

「主をほめ讃える理由」

詩篇147章1~20節
2015年9月27日 第4聖日
牧師 長江忠司

 この詩篇の著者は言いました。「まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。」何故、主をほめ讃えることが良いことなのでしょうか。
 第一に、主はほめ讃えられるに相応しいお方だからです。主は偉大であり、星の数を数え名前をつけることがおできになるお方です。このお方にとって不可能なことはありません。私達は主のご性質について知れば知るほどに、主をほめ讃えざるを得なくなるのです。
 第二に、主は賛美を喜ばれるからです。主はご自身をほめ讃え、信頼する者を喜ばれます。逆に、かつてのイスラエルの民の様に呟きが多く信頼することもなかったら、悲しまれることでしょう。私達はどちらでしょうか。
 第三に、主が霊的戦いに勝利させて下さるからです。サタンは神の愛と力を疑わせて来ます。しかし私達が主をほめ讃えている時に、最大の防御をしていることになるのです。結果的に霊的戦いに勝利することができます。
 私達は日々どれ位主をほめ讃えていることでしょうか。その時間をどれ程に確保しているでしょうか。心から喜び感謝しつつ、いつも主をほめ讃える者でありましょう。

<聖書のことば>
ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。
詩篇147篇1節

2015年9月20日日曜日

「やもめの献金」

マルコの福音書12章41~44節
2015年9月20日 第3聖日
牧師 長江忠司

 人々が献金箱に献金を投げ入れる様子をご覧になられていたイエス様は、一人の貧しいやもめが献げた献金を称賛されました。ここから学ばせて頂きましょう。
 第一に、主は私達の小さな業をもご存知でいて下さいます。献金額だけで言うならば、非常に僅かなものでした。しかしそれは彼女の生活費の全てでした。献金額からはわからない側面を主は御存知であられたのです。その様に主は私達がささげる小さな業をも全てご存知であられます。
 第二に、主は私達を守り支えて下さいます。やもめはたとえ全てを献げても、主が養って下さると信じたのでしょう。私達もたとえ先が見えない状況に入れられたとしても主の守りを信じてみことばに従うことが大切です。
 第三に、主は私達の献身を求めておられます。彼女は持っている内の幾分かではなく、全てを献げました。主は私達の為に全てを献げて下さいました。同様に私達も献身をもってささげる生涯を送ることを願われているのです。
 私達は救われた者として、どの程度の献身を持って主にお応えしているでしょうか。小さくても構いません。喜んで献げていく者でありましょう。

<聖書のことば>
みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。
マルコの福音書12章44節

2015年9月13日日曜日

「幸いな人生の秘訣」

詩篇1篇1~6節
2015年9月13日 第2聖日
牧師 長江忠司

 人は誰しも幸いな人生を送りたいと願うものです。今日の箇所で、人が幸いな歩みをする為の秘訣が書かれております。どうすれば、幸いな人生を送ることができるのでしょうか。
 第一に、悪の道を避けることです。人は急激に堕落するのではなく、徐々に悪の道に引き寄せられて行くものです。ですから、油断してはならず、積極的に悪の道から離れて行くことが大切です。
 第二に、みことばを喜びとすることです。まず、みことばを慕い求めることです。毎聖日の礼拝は勿論のこと、日々の個人的礼拝であるディボーションが不可欠です。そして、昼も夜もみことばを口ずさむことです。キリストのことばをどこかにしまっておくのではなく、心の内に豊かに住まわせることが大切なのです。
 これらの事を心掛け実行していく時に、心は潤され実りのある歩みをすることができます。人は様々なものに幸せを見出そうとしますが、神のみことばにこそ鍵があります。みことばを喜びとし実行して、幸いな人生を送る者でありましょう。

<聖書のことば>
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
詩篇1篇1節

2015年9月6日日曜日

「律法学者たちの偽善」

マルコの福音書12章38~40節
2015年9月6日 第1聖日
牧師 長江忠司

 イエス様は律法学者たちに気をつけるように言われました。それは、彼らの様になってはならないという教えでもありました。私達は何に気をつけて歩むべきでしょうか。
 第一に、人ではなく神の評価を意識することです。彼らは長い衣をまとうのを好みました。人に高く評価されることが大好きだったのです。私達も主の為に始めた奉仕が、いつしか人の評価を気にしてしまっていることがあります。そうではなく、主に喜んでいただくことを意識して献げるべきなのです。
 第二に、神の前に謙遜であることです。彼らは宴会の上座を好みました。それが相応しいと考えていたからです。謙遜こそが、主から祝福をいただく秘訣であることを忘れてはなりません。
 第三に、神を恐れることです。彼らは貧しいやもめの家を食いつぶしていました。神を恐れない歩みであったと言う事ができます。私達はどんな時であっても主を恐れて歩むべきなのです。
 人の評価、人の目を気にして歩むことは、主に喜ばれることではありません。いつも主を意識して、主に喜ばれる歩みをするよう心がけましょう。

<聖書のことば>
イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。・・・」
マルコの福音書12章38節

2015年8月30日日曜日

「主のしもべ」

コリント人への手紙第一 6章19~20節
2015年8月30日 第5聖日
牧師 長江忠司

 キリストを信じて救われた私達は神の子供であると同時に、神のしもべとされています。何故、主のしもべとして歩むべきでしょうか。
 一つは、主が私達を買い取って下さったからです。私達はキリストの命を持って買い取られました。もう一つは、しもべとして歩まれたイエス様の模範があるからです。主は生涯、しもべとして歩まれて私達に模範を残されました。
 それでは、主のしもべとしてどう歩むべきでしょうか。
 まず、主のみこころに従うことです。自分の願いよりも、主のみこころを最優先することです。次に、主の栄光の為に生きることです。かつての様に自分の栄光の為ではなく、神の栄光の為に用いられたいのです。
 確かに私達クリスチャンは神の子供ですが、それだけだとアンバランスです。自分が一体何者であるのか正しく認識しましょう。そして主のしもべとして、主と教会に心からお仕えする歩みを致しましょう。

<聖書のことば>
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
コリント人への手紙第一6章20節

2015年8月23日日曜日

「キリストは誰か」

マルコの福音書12章35~37節
2015年8月23日 第4聖日
牧師 長江忠司

 イエス様は尋ねられました。「律法学者たちはどうしてキリストをダビデの子と言うのか」と。キリストについて確認しましょう。
 第一に、人であられました。旧約の預言の通りにダビデの子孫としてお生まれになられました。しかし民衆が期待していた様な軍事的政治的な王ではありませんでした。人を愛し、救いの道を示されました。
 第二に、神であられました。ダビデはそれを預言して、主と呼んでいたのです。神であられたからこそ、私達の罪を贖うことができました。
 次に、これらを踏まえて私達は何を覚えるべきでしょうか。まず、喜んで主のみことばを聞くことです。このお方が真の神であると信じ理解しているなら、積極的に喜んでみことばを聞くでしょう。次に、人生に於いて主を第一に置くことです。このお方を前に置いて歩む人生こそ、本当に幸いな人生となるのです。
 「キリストは私にとって誰なのか」を正しく認識して、幸いな歩みをする者でありましょう。

<聖書のことば>
イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。
マルコの福音書12章35節

2015年8月16日日曜日

「一番大切な教え」

マルコの福音書12章28~34節
2015年8月16日 第3聖日
牧師 長江忠司

 一人の律法学者が、イエス様の所へやって来て尋ねました。「全ての命令の中でどれが一番大切ですか。」主は答えられました。
 第一に、全身全霊をもって神を愛することです。心・思い・知性・力を尽くすとは、私達の全存在をもって神を愛するということです。何故ならば、主は私達を造り生かして下さっているお方ですし、私達を贖いお救い下さったお方だからです。
 第二に、自分と同様に人を愛することです。神さえ愛していれば良いのではなく、人をも同様に愛することが主のみこころなのです。
 私達はこの二つの最も大切な命令を覚えて、応答しなければなりません。一つは、キリストを信じ受け入れることです。救いに近いだけでなく、救われる必要があります。二つ目に、神を愛し人を愛して歩むことです。本当に心から神を愛しているならば、その愛は人への愛となって溢れ出て来ます。私達の愛は心からのものでしょうか。心から主を愛し、且つ、人を愛する、主の教えに従う者となりましょう。

<聖書のことば>
律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
マルコの福音書12章28節

2015年8月9日日曜日

「思い違い」

マルコの福音書12章18~27節
2015年8月9日 第2聖日
牧師 長江忠司

 今度は復活を信じないサドカイ人がイエス様に対して挑戦してきました。彼らの思い違いについて見ましょう。
 第一に、基準とすべきものです。サドカイ人は自分の考えを基準としていたので、的外れな質問をしました。全ての人は何かを基準とし歩んでいます。主のみことばを基準として歩む者は幸いです。
 第二に、聖書と神の力についてです。彼らは復活を信じていませんでしたが、聖書には復活について記されています。神にとって不可能なことは有りません。その主に信頼して歩む者は幸いです。
 第三に、死後の世界についてです。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とは、彼らが今も生きていることを意味しています。死後の世界を正しく認識するかどうかで、この世の歩み方は全く異なってきます。正しく死後の世界を認識することが、意味のあるこの世での歩みとつながるのです。
 思い違いをしないで歩む者でありましょう。

<聖書のことば>
イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。
マルコの福音書12章24節

2015年8月2日日曜日

「キリスト者の責任」

マルコの福音書12章13~17節
2015年8月2日 第1聖日
牧師 長江忠司

 イエス様がエルサレムに入城されてから、イエス様を陥れようと幾つかのグループがやって来ました。今回はパリサイ人とヘロデ党の者たちです。彼らは互いに相いれない者達でしたが、イエスを共通の敵としてやって来ました。「カイザルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか。」2つのことを学びましょう。
 第一に、キリスト者は国に従い、為政者の為に祈るべきことです。権威は神によって立てられており私達はその恩恵に与っています。それ故、クリスチャンは国に従い、為政者の為に祈る責任があります。
 第二に、神を第一にしてお従いするべきことです。何故なら、神こそ絶対的な支配者であられるからです。そして神から計り知れない程の恵みをいただいているからです。
 問題は国と神の教えが食い違う時にどちらに従うかです。聖書は神に従うように教えています。私達はこの点で曖昧になってはいけません。明確に主に従ってこそ、明確に良き証しを立てることができるのです。

<聖書のことば>
するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。
マルコの福音書12章17節

2015年7月26日日曜日

「礎の石」

マルコの福音書12章1~12節
2015年7月26日 第4聖日
牧師 長江忠司

 祭司長や律法学者たちとのやり取りが続きます。主が語られたたとえ話を通して、主がどの様なお方なのかが教えられています。
 第一に、主は導かれるお方です。主人はぶどうの実をならせる為に、多くの準備をしました。私達も救いをいただく為に、どれだけ多くの準備がなされて導いていただいたことでしょうか。
 第二に、主は忍耐されるお方です。農夫たちは主人に敵対し、しもべを殺害までもしました。にもかかわらず、主人は憐み忍耐し続けたのです。主はまさに愚かな私達の為に忍耐して下さいました。
 第三に、主は限りなく愛深いお方です。主人は最終的に息子を遣わしました。それ程に彼らを憐み愛しておられたからです。神は私達の為に一人子であるキリストを遣わされました。主は身代わりに死んで下さいましたので、私達は信じるだけで救われることができたのです。
 その様に人々から捨てられたお方が、礎の石となられました。このお方に信頼する時に、私達は失望させられることがないのです。素晴らしい主を心の中心に据えて歩む様にしましょう。

<聖書のことば>
あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。
マルコの福音書12章10節

2015年7月19日日曜日

「何の権威によって」

マルコの福音書11章27~33節
2015年7月19日 第3聖日
牧師 長江忠司

 イエス様の所に祭司長、律法学者、長老たちがやって来て尋ねました。「何の権威によって、これらのことをしているのか。」今日の箇所から、何が教えられるでしょうか。
 第一に、真理に対し心を開く大切さです。彼らはイエスを陥れようと企んでいました。真理に心を開こうとしていなかったのです。私達も真理が語られも、心を開き聞こうとしないなら何も得ることはできません。
 第二に、人ではなく神を恐れることの大切さです。彼らは人を恐れた為にイエスから投げかけられた質問に答えることができませんでした。人を恐れると様々なものに縛りつけられることになります。逆に神を恐れる時に私達は自由になり解放されることができるのです。
 第三に、悔い改めることの大切さです。彼らは語られていても何も悔い改めることをしませんでした。それ故に変わる事が無かったのです。私達は示された時に、直ちに悔い改めることが大切なのです。
 私達は何の権威によって歩んでいるでしょうか。神の権威こそ信頼できます。常に神の権威に服従して歩む者でありましょう。

<聖書のことば>
そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」
マルコの福音書11章28節

2015年7月12日日曜日

「祈りのレッスン」

マルコの福音書11章19~26節
2015年7月12日 第2聖日
牧師 長江忠司

 イエス様はここで弟子たちに祈りについて教えられました。祈る上で大切なことは何でしょうか。
 第一に、主を信じて祈ることです。主は山や海でさえも、信じて祈るならば動かされると教えられました。疑わないで祈る様に教えられたのです。主が願われているのは私達の信仰が強められることなのです。
 第二に、主のみこころにかなう祈りをすることです。自分の願いを祈って良いのですが、しかし私達クリスチャンは主のみこころが最善であることを知っているのですから、みこころを求めるべきなのです。
 第三に、主に喜ばれる歩みをすることです。主は特にここで、対人関係について述べられました。主から罪を赦していただいた私達は人を赦すべきであり、そうであってこそ、祈りが祝福されると語られたのです。
 私達の心に示されることはないでしょうか。
 主は弟子たちを祝福されたかったからこそ、この祈りのレッスンを与えられました。今も同じです。悔い改めて、祝された祈りをささげるようにしましょう。

<聖書のことば>
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
マルコの福音書11章24節

2015年7月5日日曜日

「心配無用」

マタイの福音書6章25~34節
2015年7月5日 第1聖日
牧師 長江忠司

 聖書は神を抜きにして心配しないように教えています。初めに、何故、私達は心配するべきではないのでしょうか。
 第一に、神を信頼していないことになるからです。心配するということは、主が共におられる、全てを益とすると言われる主の約束などを信じないことになります。
 第二に、心配した所で何も変わらないからです。神を抜きにして心配しても、体を弱めることはあれ、益となることはありません。

 次に、心配してしまう時にどう対処したら良いでしょうか。
 第一に今日なすべき事に集中することです。その日その日に労苦は沢山あります。それに集中することです。
 第二に、神を第一とした生活をすることです。神以外のものを第一にすると、結果的に歯車が狂い悪循環が始まります。そうではなく主を第一にするのです。
 第三に、神に信頼し委ねることです。心配する時こそ、主に信頼し、主に委ねることです。

 突き詰めて言うと、主に信頼し委ねるか、信頼しないで心配するかのどちらかです。私達は主を信頼して平安の内を歩ませていただきましょう。

<聖書のことば>
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
マタイの福音書6章34節

2015年6月28日日曜日

「宮きよめ」

マルコの福音書11章11~18節
2015年6月28日 第4聖日
牧師 長江忠司

 エルサレムに入城された翌日、主は空腹を覚えられいちじくの木に近づかれました。葉は生い茂っていたのですが実は無かったのです。主はその本質を見抜かれて、誰もおまえの実を食べることがないようにと仰せられました。それが序章となって宮きよめが行われました。時は過越しの祭りの時期で、世界中から多くの人々が集まって来ていました。神殿ではささげる為のいけにえの動物を販売する者や両替商たちが強盗の如く暴利を貪り商売していたのです。イエス様はそんな彼らを厳しく追いやられました。この箇所を通して、自分自身をもう一度点検しましょう。
 第一に、私達は心からの礼拝をささげているでしょうか。この時の民の様に形式的礼拝に陥っていないでしょうか。
 第二に、霊的な実を結んでいるでしょうか。外見は葉が生い茂っているのに実の無かったこの時のいちじくの木の様になっていないでしょうか。
 第三に、きよめられているでしょうか。主は宮をきよめる事にあれ程に熱心であられました。今、私達は神の宮とされています。主は私達をもきよめようと熱心にご覧になられているのです。
 主は今日も宮きよめを願っておられます。もし罪を示されたら、直ちに告白して、主にきよめていただきましょう。

<聖書のことば>
それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
マルコの福音書11章15~16節

2015年6月21日日曜日

「バルナバのように歩む」

使徒の働き9章26~31節
2015年6月21日 第3聖日
牧師 長江忠司

 本日はバルナバという人物を通して、父親は勿論のこと、全ての信徒が学ぶべき教えをいただきましょう。彼はどの様な歩みをしたのでしょうか。
 第一に、主に惜しみなく献げました。彼は畑を売ってその代金を主の働きの為に献げました。それだけでなく、宣教の為に人生すべてを献げていました。大胆に主に献げる者ほど、周りに大きな影響を与えることができます。
 第二に、主にある人を受け入れ理解者となりました。かつて迫害者であったサウロを受け入れ理解者となりました。バルナバがいなかったら、後のパウロはありませんでした。
 第三に、主にある人を励まし育成しました。かつて途中で働きを投げ出したマルコでしたが、バルナバは彼を励まし育成しました。後に彼は役立つ者と変えられたのです。
 バルナバは目立たない働き手でしたが、確かに豊かに用いられました。家庭に於いて、そして教会に於いてバルナバが必要です。バルナバの様に変えられて、主に豊かに用いられる者となりましょう。

<聖書のことば>
ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。
使徒の働き9章27節

2015年6月14日日曜日

「キリストのエルサレム入城」

マルコの福音書11章1~10節
2015年6月14日 第2聖日
牧師 長江忠司

 イエス様がエルサレムに入城された箇所から学びましょう。
 第一に、主はろばの子を用いて入城されました。それは預言されていたことの成就と共に、主は力の弱い動物を主の御栄の為に用いられたことがわかります。私達も相応しくない者でしたが選ばれ救われました。今も主の御栄の為に用いようとして下さっているのです。
 第二に、主に対する誤ったメシヤ理解がありました。群衆は軍事的政治的メシヤを期待し、熱狂的に主を迎えたのです。しかし、彼らの期待していたメシヤ像と異なったとわかると、いとも簡単にメシヤを十字架につけました。私達の信仰は誤っていないでしょうか。
 第三に、主は群衆の声に踊らされることなく、真っ直ぐに十字架へ歩まれました。弟子たちが御国で偉くなることばかり考えていたのに対して、主は贖いの十字架の死に向けて一直線に歩まれたのです。私達の生涯はイエス様に倣ったものでしょうか。
 私達はイエス様の十字架の死によって救われた者として、主の御声を聞いたなら即座に明け渡して献げる者でありましょう。

<聖書のことば>
そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
マルコの福音書11章7節

2015年6月7日日曜日

「バルテマイの癒し」

マルコの福音書10章46~52節
2015年6月7日 第1聖日
牧師 長江忠司

 イエス様たちがエリコに来た時、盲人バルテマイたちが叫びました。この箇所から教えをいただきましょう。
 第一に、主は無力さを覚えて主により頼む者に応えて下さいます。彼はイエス様についての噂を聞いていたのでしょう。主が来られた時にたしなめられても叫び続けました。主はそんな彼に応えられました。私達も自分の無力さを覚えて祈るべきです。
 第二に、主は苦しむ私達を憐み理解して下さいます。十字架を前にしておられましたが、主は彼を見過ごされませんでした。彼の為に立ち止まり、苦しみを理解し憐みをかけられました。主は私達の苦しみをも理解し憐れんで下さいます。
 第三に、主は信仰によって応答する者に恵みを与えて下さいます。彼は主の呼び掛けに直ちに応えました。私達も主が呼び掛けておられるならば直ちに応えることが必要なのです。
 彼は信仰によって主に呼び求めたので、主によって大きく変えられることができました。私達も信仰によって変えられる者でありましょう。

<聖書のことば>
するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
マルコの福音書10章52節

2015年5月31日日曜日

「主の弟子の生き方」

マルコの福音書10章35~45節
2015年5月31日 第5聖日
牧師 長江忠司

 ヤコブとヨハネが母親と共にイエス様の所に来て頼みました。「あなたの栄光の座で、一人を先生の右に、ひとりを左に座らせて下さい。」彼らの失敗から、キリストの弟子の生き方について学びましょう。
 第一に、現状が見えていませんでした。主はこの直前に三度目の受難予告をされた所でした。主は十字架に向けて一直線に歩んでおられたのに、弟子たちは現状が見えておらず自分たちが王国で偉くなることばかり考えていました。私達は今がどの様な時か見極める必要があります。
 第二に、自分の力に頼っていました。彼らは神の怒りの杯を飲むことができると言い切りました。自分の力に過信していたからです。私達はどこまでもへりくだって歩む必要があります。
 第三に、自分が高く上げられることを願っていました。しかし主は、仕える者となるようにと仰せられたのです。私達は偉くなりたいという願いよりも、人に仕えたいという願い、実際に仕えて行くべきなのです。
 私達の生き方はキリストに倣ったものでしょうか。主の弟子として正しい生き方ができているかどうかを省みる様にしましょう。

<聖書のことば>
しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
マルコの福音書10章43節

2015年5月24日日曜日

「奉仕をささげる前に」

ルカの福音書10章38~42節
2015年5月24日 第4聖日
牧師 長江忠司

 マルタはマリヤの姿勢を批判しました。自分の仕える姿勢の方がマリヤよりも勝っていると考えたからです。しかしイエス様はマルタに言われました。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです。」それは礼拝でした。
 二週続けて、僅かな時間ですが奉仕者訓練会を行いました。これまでに心得や技術的なことを学びました。私達はより一層整えられた奉仕をささげていくべきであり、その為に心を注ぐべきです。しかし、私達は第一とすべきものである礼拝に、最も心を注ぐべきことを忘れてはなりません。
 主は私達に、奉仕をささげる前に、まず礼拝をささげるように教えておられます。礼拝こそ最高の奉仕であり、毎聖日の礼拝を忠実に、霊とまことをもってささげてこそ、次に他の奉仕をささげることができます。そして最高の礼拝をささげているならば、私達は霊的に養われて、奉仕に関しても整えられ用いられることができるのです。
 この基本中の基本原則を忘れないで、今年度の牧師ビジョンの一つ「礼拝第一」を心に留め、守り通す者でありましょう。

<聖書のことば>
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
ルカの福音書10章42節

2015年5月17日日曜日

「苦難を前にして」

マルコの福音書10章32~34節
2015年5月17日 第3聖日
牧師 長江忠司

 イエス様はエルサレムに向かって進まれました。この箇所を通して主の模範を学びましょう。
 第一に、主はご自身の使命を明確に自覚しておられました。エルサレムに行く事は殺されに行くようなものでした。にもかかわらず、主はまっすぐに進んで行かれたのです。人類の救いを成就するという使命を明確に自覚しておられました。私達も自分の使命を明確に自覚しつつ歩む必要があります。
 第二に、主は先頭に立って歩まれました。主は私達の人生においても、常に先頭に立って歩んで下さっています。
 第三に、主は希望に目をとめておられました。やがて恐ろしい十字架の苦しみを経験しなければなりませんでしたが、その先にある希望に目をとめておられたのです。私達も今の暗闇部分だけに目をとめていてはいけません。主にある希望に目をとめるべきなのです。
 私達の人生にも苦難がやって来ます。苦難を前にして何を見るか。それが大切です。主にある希望と主ご自身を見て歩みましょう。

<聖書のことば>
さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。
マルコの福音書10章32節

2015年5月10日日曜日

「子どもを育て導くために」

申命記6章4~7節
2015年5月10日 第2聖日
牧師 長江忠司

 親は子どもを、教会は新たな魂を育て導く責任があります。この母の日に、子どもを育て導くことについて学びましょう。何が大切でしょうか。
 第一に、主のみことばによって教育することです。聖書は信仰を次の世代に継承するように強調し、その為にみことばによって教育すべきことを教えています。私達は世の教えよりも、第一に主のみことばによって教育することです。
 第二に、主に従う模範を示すことです。パウロは私に倣う者となって下さいと言いました。私達は口先だけではなく、背中で模範を示していく必要があります。
 第三に、主にとりなしの祈りをすることです。霊的に乱れきったこの世で生きている子供たちが主のみこころの内を歩む為に祈りが不可欠です。その祈りは決して無駄にはならないのです。
 いつの時代にも変わらないこの基本に忠実に従う者でありましょう。そして素晴らしい信仰を継承していきましょう。

<聖書のことば>
これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
申命記6章7節

2015年5月3日日曜日

「弟子の歩みでおぼえるべきこと」

マルコの福音書10章28~31節
2015年5月3日 第1聖日
牧師 長江忠司

 弟子たちはイエス様に尋ねました。「私達は何もかも捨てて従ってきました。何を頂けるでしょうか。」弟子の歩みでおぼえるべきことは何でしょうか。
 第一に、主の為にささげ、従う者には豊かな報いがあることです。動機が大切です。主の救いに感謝して、主と主の福音の為にささげるのです。その結果、主は豊かな報いを与えて下さいます。この報いは永遠に続きます。
 第二に、主に従う者には迫害や困難もあることです。主にあって敬虔に生きようとすると必ず迫害にあいます。祝福だけを期待していたら、いつかつまずいてしまいます。迫害や困難は必ずある。しかし主はそれらをも益として下さるのです。
 第三に、逆転現象が起きることです。せっかく素晴らしい恵みに与っていても、高慢になったり惰性的に歩むなら、結果として後の者となってしまいます。いつも主の恵みをおぼえつつ歩むことが必要なのです。
 今年度、私達は誰の為に、そして何の為にささげるでしょうか。本当に価値のあるものの為、価値あるお方の為にささげる者でありましょう。

<聖書のことば>
イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、 その百倍を受けない者はありません。」
マルコの福音書10章29~30a節

2015年4月26日日曜日

「神の呼びかけに対して」

マルコの福音書10章17~27節
2015年4月26日 第4聖日
牧師 長江忠司

 イエス様のもとに一人の役人の青年がやって来て、どうしたら永遠のいのちを得ることができるかを尋ねました。しかし彼は結果的に主を信じることなく去って行ってしまったのです。何が悪かったのでしょうか。
 第一に、神の愛の導きに気づく心がありませんでした。主は心頑なな彼をさばくことなく、いつくしんでおられましたが、彼はその愛に気づくことがなかったのです。私達は主の愛故の導きに鈍感であってはなりません。
 第二に、神を第一とする心がありませんでした。律法を守っていると言う彼に敢えて主は富を貧しい者に与える様にと言われました。すると彼は去って行ったのです。彼の心において富が王座を占めていました。私達も何が心の王座を占めているか気を付ける必要があります。
 第三に、神に明け渡し頼る心がありませんでした。神はどんな者でも救うことがおできになるのに、そのお方に明け渡し頼る心がなかったのです。私達も自分により頼んでいるなら、その歩みは疲れてしまうのです。
 主の愛の呼びかけに対して、素直に応じ従う者でありましょう。

<聖書のことば>
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
マルコの福音書10章27節

2015年4月19日日曜日

「子どものように」

マルコの福音書10章13~16節
2015年4月19日 第3聖日
牧師 長江忠司

 イエス様は子どもを呼び寄せて、子どものようにならなければ天の御国に入ることはできないと言われました。それはどういう意味なのでしょうか。
 第一に、みことばを慕い求めることです。乳飲み子は母親の乳を慕い求めます。その如くに、神のみことばを慕い求める心が大切です。少しでも多くみことばを聞きたい、教会の集会に出席したいと思うことは、大変幸いであると言う事ができます。
 第二に、素直であることです。子どもたちは疑うことをせず、みことばをそのまま信じ受け入れます。私達も語られるみことばに対して素直に応じる者でありたいのです。
 第三に、信頼することです。子どもは親に完全に信頼しきっています。親は自分を守ってくれると信じているのです。私達も完全なる主への信頼が大切です。主は私達と共にいて下さいます。子どものように純粋に主により頼む者でありましょう。

<聖書のことば>
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。
マルコの福音書10章15節

2015年4月12日日曜日

「主の栄光の為に従い通す」

ピリピ人への手紙2章6~9節
2015年4月12日 第2聖日
牧師 長江忠司

 神の御子イエス様は人間の身代わりに十字架にかかり死なれました。その理由として、人間を愛されたからというだけではなく、父なる神の栄光を現わす為でもありました。それ故にみこころに従い通されたのです。私達はイエス様のそんな模範をいつも心に留めておく必要があります。そうした歩みをする時に、歩みが変えられて行きます。
 第一に、成熟したクリスチャンとして歩み、実を結ばせていただくことができます。霊的幼子クリスチャンは自分の思いに神様を合わせようとするものです。自分の都合の悪いことが語られると受け入れられず従いません。しかし、主の模範に倣う時に、成熟した歩みに変えられていきます。主はその様に歩む人に実を結ばせて下さるのです。
 第二に、試練に勝利させていただくことができます。主は十字架にかかられる前に非常に苦しまれましたが、最後まで従い勝利されました。私達もその模範に倣う時に、たとえ苦しくても最後まで従い通し、試練に勝利することができるのです。大切なことは、主の栄光の為に従い通すことなのです。

<聖書のことば>
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
ピリピ人への手紙2章7~8節

2015年4月5日日曜日

「キリストの復活とその意味」

コリント人への手紙第一15章12~20節
2015年4月5日 第1聖日
牧師 長江忠司

 神の御子キリストは人類の身代わりに十字架にかかり死なれました。しかし、約束の通り3日目によみがえられたのです。復活はキリスト教の非常に重要な教理であるが故に、これを否定しようとする試みが幾つもありました。盗難説、錯覚説、気絶説、幻覚説などです。しかしこれらは冷静に考えるならば、明らかに間違っていることがわかります。復活を今の時代のごとく科学的に検証することはできませんが、周りの事実から証拠づけることはできます。特に弟子たちが変えられたことです。彼らは最初逃げ隠れていましたが、迫害を恐れずにキリストを伝えるようになりました。それは復活の主と確実に出会ったからであると言う事ができます。復活の事実が意味することは何でしょうか。
 第一に主は生きて働かれることです。
 第二に、私達もよみがえるということです。
 第三に、主のおことばには完全に信頼できるということなのです。
 復活が偽りであるなら、これ程に信頼できない宗教はありません。しかし、主は復活されました。これ以上に信頼できるお方はおられないのです。復活の主をいつもおぼえて、確かな希望をもって歩みましょう。

<聖書のことば>
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
コリント人への手紙第一 15章20節

2015年3月29日日曜日

「わたしは渇く」

ヨハネの福音書19章28~30節
2015年3月29日 第5聖日
牧師 長江忠司

 罪が一つも無かった神の御子イエス様は、ユダヤ人指導者の不正な訴えとローマの不正な裁判により十字架にかかり死なれました。十字架上で語られた「わたしは渇く」について学びましょう。
 第一に、主は極限まで苦しみを経験されたことです。二つの側面がありました。一つは肉体的側面。ローマの鞭により全身がズタズタになり大量出血し、極限の渇きをおぼえておられました。もう一つは霊的側面です。主は父なる神との関係が断絶されるという中で、極限の霊的渇きをおぼえておられたのです。
 第二に、主は私達の身代わりとなられたことです。本来渇くことのないお方が渇き、死なれました。私達の罪を背負って身代わりとなって下さったのです。これらを踏まえて、何をすべきなのか。全ての人はキリストを信じて救われるべきです。また、信じた者は、このお方の為に献げて歩むべきです。贖いの主に栄光がありますように。

<聖書のことば>
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
ヨハネの福音書19章28節

2015年3月22日日曜日

「主の弟子のあり方」

マルコの福音書9章49~50節
2015年3月22日 第4聖日
牧師 長江忠司

 イエス様が弟子たちに語られた事を通して、主の弟子のあり方について学びましょう。
 第一に、聖められた歩みをすることです。難解な箇所ですが、火とは試練を意味していると思われます。キリスト者は試練によって聖められ塩気を付けられていくことができます。無駄な試練は一つもありません。
 第二に、塩気を保つ歩みをすることです。塩は防腐剤的な役割と味を付ける役割があります。私達は世に遣わされている者として2つの塩気ある歩みをする責任があります。
 第三に、互いに平和に歩むことです。私達は世の人と争う関係になってはいけません。主がそうであられた様に、平和を保つ歩みをする必要があるのです。
 主は私たちを豊かにお取り扱い下さいます。この節目の時期にあって、もう一度主におささげして、主に用いていただきましょう。

<聖書のことば>
塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。
マルコの福音書9章50節

2015年3月15日日曜日

「宮の奉献式」

エズラ記6章16~22節
2015年3月15日 第3聖日
牧師 長江忠司

 エルサレムに帰還したイスラエルの民が、神殿の再建を完成させ、奉献式を行いました。どの様なささげものだったのでしょうか。
 第一に、最高をもっておささげしました。ソロモンが神殿を建てた時とは比較にならない程に規模の小さなものでしたが、しかし帰還した彼らにとっては最高のものでした。私達も額ではなく、自分にできる最高をもって主に仕えささげることが大切です。
 第二に、罪の為のいけにえをささげました。彼らはこれまでの自分たちの罪を忘れずにきよめられる為にいけにえをささげたのです。私達も主の前に正しく罪を取り扱っていただく必要があります。
 第三に、過越しのいけにえをささげました。彼らの原点である過越しを思い出し、またこれまでの恵みと憐みを思い出して主に感謝をささげたのです。私達もひとえに主の恵みと憐みによって過ぎ越された者です。あらためて主の恵みをおぼえ感謝するべきです。
 私達もその様に心新たにして、主にささげる者でありましょう。

<聖書のことば>
彼らはこの神の宮の奉献式のために、牛百頭、雄羊二百頭、子羊四百頭をささげた。また、イスラエルの部族の数にしたがって、イスラエル人全体の罪のためのいけにえとして、雄やぎ十二頭もささげた。
エズラ記6章17節

2015年3月8日日曜日

「キリストのものに対して」

マルコの福音書9章41~48節
2015年3月8日 第2聖日
牧師 長江忠司

 主はここでも弟子たちに語られました。今日の箇所から、人を躓かせることと支えることについて学びたいと思います。
 まず、人を躓かせることについてです。
 第一に、大きな罪であることです。人を躓かせ罪を犯させるような者は大きな石臼を首にゆわつけられて海に投げ込まれた方がいいと言われています。それ程に大きな罪であるということです。
 第二に、それ程に一人の魂の価値は尊いということです。小さな存在であったとしても、神の目から見たら尊い存在であることを忘れてはならないのです。
 次に、主の者を支えることについてです。
 その様な者は必ず報いを受けます。主は私達の手のわざをご覧になられているからです。そして決して報いから漏れることはありません。そして弱き者に手を差し伸べることは、主に対してするのと同じことになるのです。
 教会に於いて、支え手として用いられる人は幸いです。誰であっても支え手になることができます。新年度、人を躓かせるのではなく、支える者として大きく用いて頂きましょう。

<聖書のことば>
あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。
マルコの福音書9章41節

2015年3月1日日曜日

「主のこころを知る」

マルコの福音書9章38~40節
2015年3月1日 第1聖日
牧師 長江忠司

 弟子たちは、主の名を用いて悪霊を追い出していた者に対して、仲間ではないという理由で止めるように言いました。
 第一に、主の如く、人をさばくのではなく受容することです。弟子たちはその者達を除外しようとしました。しかし、彼らも主から受け入れていただいたように、受け入れるべきだったのです。私達も受け入れられた者として、兄姉を受け入れているでしょうか。
 第二に、主のこころを知ることです。主は繰り返し互いに愛し合うように語られています。それこそが主のみこころなのです。私達は主のこころを知り、主にある兄姉として互いに愛し合うことが大切なのです。
 第三に、主の愛をいつもおぼえて歩むことです。悪霊を追い出せなかった弟子たちは妬みや不安感にかられたのかもしれません。しかし、だからこそ、主の愛をおぼえて歩むべきでした。
 私達は主から愛され受け入れられていることをおぼえる時に、互いに愛し合い受け入れ合うことができるのです。

<聖書のことば>
わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
マルコの福音書9章40節

2015年2月22日日曜日

「交わりの心得」

使徒の働き20章35節
2015年2月22日 第4聖日
牧師 長江忠司

 教会は「主に呼び集まれた者の集まり」です。それゆえに、互いの交わりが非常に大切です。
 第一に、交わりは不可欠とおぼえることです。一人で信仰生活を送る事のできる者は誰もいません。互いに祈られ励まされてこそ、歩むことができます。交わることなく歩む信仰生活は危険で脆いのです。
 第二に、互いに不完全であることをおぼえることです。クリスチャンだからと言って完全な霊性を持っている人は一人もいません。皆不完全であり霊的工事中と言う事ができます。それ故、言葉や態度で罪を犯すことがあります。人だけを見ていたら、躓いてしまうことでしょう。しかしそれでも主によって召された兄姉なのです。互いに愛し合い赦し合うことが大切なのです。
 第三に、受けるよりも与えることです。主は与える方が幸いであると仰せられました。私達も受けることを期待するのではなく、与えるように努めましょう。主はその様な者を祝福で満たして下さるのです。
 横浜教会における交わりが祝福されるようにお祈りしましょう。

<聖書のことば>
主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。
使徒の働き20章35節

2015年2月15日日曜日

「魂への責任」

列王記第二 7章3~10節
2015年2月15日 第3聖日
牧師 長江忠司

 サマリヤはアラムに攻め入られ包囲されていました。ここで4人のツァラアトに冒された人たちの歩みを通して学びましょう。
 第一に、素晴らしい恵みを自分達だけのものにしていました。主が働かれたので、アラムは食料や財宝をそのままにサマリヤを逃げ去っておりました。4人は飲み食いし、財宝を持ち帰りました。彼らは素晴らしい主からの恵みを独り占めしていたのです。
 第二に、この知らせの重大さを理解していませんでした。同胞の民が飢え死にしそうになっているのに、彼らは良き知らせを伝えることなく黙っていたのです。
 第三に、責任が問われることに気づかされました。彼らは自分たちがこのまま黙っているならば、神の罰を受けることに気づかされました。それで伝えに行ったのです。
 私達も主の恵みによって救われました。祝福の内を歩ませていただいています。しかし、この知らせをどれ程伝えようとしているでしょうか。伝えなければ、主は私たちにその責任を問われるのです。

<聖書のことば>
彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。
列王記第二 7章9節

2015年2月8日日曜日

「仕える者として」

マルコの福音書9章33~37節
2015年2月8日 第2聖日
牧師 長江忠司

  イエス様と弟子たちはカペナウムに戻り、そこで主は弟子たちに尋ねられました。「道で何を論じ合っていたのですか。」その後のやり取りから、私たちにとって大切なことを学びましょう。
 第一に、幼子のように謙遜になることです。弟子たちは誰が一番偉いのか話し合っていましたが、そんな彼らに幼子の様な謙遜な者が御国で一番偉いのだと教えられました。私達も主の御前で幼子の様に謙遜に歩むべきです。
 第二に、子供を受け入れることです。それは主を受け入れることであり、父なる神を受け入れることであると教えられました。私達は主にあって子供たちを認め、受け入れ、正しく導く責任があります。
 第三に、仕える者として歩むことです。弟子たちは自分が偉くなり仕えさせる者になりたいと願いましたが、主は仕える者となるように教えられました。主はその模範を生きざまを通して示されたのです。
 私達はプライドの高い大人の様にではなく、幼子の様に謙遜に、そして仕える者として歩むように致しましょう。

<聖書のことば>
イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
マルコの福音書9章35節

2015年2月1日日曜日

「今、理解できなくても」

マルコの福音書9章30~32節
2015年2月1日 第1聖日
牧師 長江忠司

 この短い箇所から、みおしえをいただきましょう。
 第一に、世に流されずに、主のみこころを求めるべきことです。彼らは変貌の山の出来事や悪霊の追い出しの後、群衆と共に熱狂しイエス様を政治的な王としようとしていたと思われます。それで主は、あなた方は主のみこころをわかっているようにと言われました。私達も流されやすい者です。主のみこころを求める必要があります。
 第二に、真理を直視すべきことです。弟子たちはイエス様から受難の予告を再び聞いたのですが、恐くて真理から目をそらしました。私達も同様にしてしまいがちです。主が示されていることがあるなら直視して、従う必要があります。
 第三に、完全に理解できないことがあると覚えるべきことです。何故なら、主が隠されていたからです。私達も、その時は理解できなくても後でわかるようになることがあるのです。
 主は私たちの全てをご存知の上で、最善へと導いて下さっています。そのお方に信頼し委ねて歩む者でありましょう。

<聖書のことば>
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
マルコの福音書9章32節

2015年1月25日日曜日

「弟子たちの不信仰」

マルコの福音書9章14~29節
2015年1月25日 第4聖日
牧師 長江忠司

 今週は弟子たちに焦点を当てて学びましょう。彼らは悪霊を追い出す権威を与えられていたにもかかわらず、なぜ追い出すことができなかったのでしょうか。
 第一に、自分の力と経験に頼ったからです。彼らは以前にも悪霊を追い出した経験があった為、その経験に頼ったのではないでしょうか。私達も過去の経験を拠り所とするならば、必ず失敗する時がやってきます。いつも主に信頼する必要があります。
 第二に、信仰がうすかったからです。彼らは信仰があったのですが、からし種のような小さくても生きた信仰がありませんでした。私達の信仰はどうでしょうか。
 第三に、祈りが無かったからです。イエス様はいつも祈りつつ歩まれました。祈りが必要だったからです。イエス様でさえそうであるならば、私達は尚更祈りが必要なのではないでしょうか。祈り無くして、祝福をいただくことはできません。弟子たちの不信仰は他人事ではありません。
 主は私達の信仰に注目しておられます。信仰をもって祈りつつあゆみましょう。

<聖書のことば>
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。」
マルコの福音書9章19節

2015年1月18日日曜日

「追い込まれた状況下で」

マルコの福音書9章14~27節
2015年1月18日 第3聖日
牧師 長江忠司

 イエス様と3人の弟子たちが戻って来ると、多くの群衆が弟子たちを取り巻いていました。この箇所から何が教えられるでしょうか。
 第一に、主は私達の信仰に注目しておられることです。主は悪霊につかれた息子を連れて来た父親に事情を聞かれました。全てご存知であられましたが、そのやり取りの中で彼の信仰を引き上げようとされたのです。主は同様に、問題の中で私達の信仰に注目しておられます。
 第二に、主は私達の信仰を助けて下さることです。父親は主を信じ切ることができるように叫びました。そして主は御業をなされました。同様に、主は弱い私達の信仰をも助けて下さいます。
 第三に、主は私達の弱さを用いて栄光を現わして下さることです。追い詰められ八方塞がりの状況下で、彼自身は弱さしかありませんでしたが、しかし主はその彼を通して栄光を現わされました。私達もたとえ弱くても、主によりすがり歩むならば、主は私たちを通しても、主の栄光を現わして下さるのです。
 私達は追い込まれた状況下でこそ、主にすがり歩む者でありましょう。

<聖書のことば>
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
マルコの福音書9章24節

2015年1月11日日曜日

「山を降りながら」

マルコの福音書9章9~13節
2015年1月11日 第2聖日
牧師 長江忠司

 イエス様の変貌の出来事を終えて、山から降りてくる途中でのことが書かれています。イエス様と弟子達とのやり取りから学びましょう。
 第一に、柔らかい心の態度が無かったことです。エリヤの再来があってからメシヤが来るのにまだ来ていない。だから、メシヤは来ていない筈だという固定概念が邪魔していました。そのように固定概念があると、私達も前進することができません。
 第二に、受難についての概念が無かったことです。弟子たちにとってイエス様が死なれることは考えにありませんでした。しかし主は確かに受難があると語られたのです。私達も生きている限り患難はあり、私達も主と共に苦しみを受ける必要があるのです。
 第三に、復活についての正しい概念が無かったことです。しかし主は現実に復活されました。私達の初穂となられたのです。私達はいずれ再臨の時に肉体をもってよみがえらされるのです。そのことを意識して歩む必要があります。
 私達は今年、柔らかい心でみことばを受け入れ、正しい人生観をもって歩む者でありましょう。

<聖書のことば>
さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。
マルコの福音書9章9節

2015年1月4日日曜日

「基本に忠実に歩む」

申命記6章17~18節
2015年1月4日 第1聖日
牧師 長江忠司

 何事でもそうですが基本が大切です。信仰生活も変わりはありません。クリスチャンにとっての基本とは何でしょうか。
 第一に、日曜日を聖別することです。これは聖書に一貫して教えられている非常に大切なことです。確かに、その為には犠牲が伴うかもしれません。しかし、犠牲の伴わない礼拝は無いのです。
 第二に、主との交わりを欠かさないことです。みことばをいただき、絶えず祈ることです。イエス様はこれを重んじられ欠かすことがありませんでした。
 第三に、主にお献げすることです。什一献金は特に大切です。これは主のものであって、私達は委ねられた富を正しく管理し、喜んで献げていくべきなのです。また、教会につながり教会に仕えることはとても大切です。主のお身体である教会につながらせていただいた恵みをもう一度おぼえて、感謝して仕えて行きましょう。
 信仰生活の基本を妨げることが今年も多く起きて来るでしょう。しかし基本を崩すことなく忠実に歩む者でありましょう。

<聖書のことば>
ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。
詩篇112篇1節