2016年6月30日木曜日

「ヴィア・ドロローサ」

マルコの福音書15章16~21節
2016年6月26日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 ローマの政治裁判において、イエス様に何の罪も見出すことができなかったにもかかわらず、ユダヤ人指導者や民衆におされてピラトは死刑判決を下しました。この後のイエス様の歩みについて見て行きましょう。
 第一に、主は嘲りを受けられました。ローマ兵たちは嘲りの言葉と暴力をもって、主を好き放題に扱いました。主はそれでも黙っておられました。
 第二に、主は苦難の道(ヴィア・ドロローサ)を歩まれました。ローマの鞭を受けられて全身ひどい傷と痛みがある中で横木を背負い、ゴルゴタの丘へ向けて歩き始められました。途中でクレネ人シモンが担うことになりましたが、イエス様は私たちの為に、一人苦しみの道を歩まれました。
 第三に、主は人々を救おうとされました。嘆き悲しむ婦人に対して、主はやがて訪れるエルサレムの崩壊とそこから救われるように言われました。主はこの局面にあっても、人々の救いを願っておられました。
 私たちも時に苦しみを経験することがあります。しかし、主が私たちの前に苦しみの道を歩まれました。そのお方が私たちと共に歩んで下さることを忘れないでいましょう。

<聖書のことば>
彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
マルコの福音書15章20節

2016年6月19日日曜日

「絶えず祈る」

テサロニケ人への手紙第一5章17節
2016年6月19日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 絶えず祈るように教えられています。これは祈祷院の様な場所で24時間祈り続けるということではありません。要所要所でよく祈り、且つ短い時間であっても祈りつつ歩むことを意味しています。なぜ、私達は絶えず祈ることが必要なのでしょうか。
 第一に、主は私達からの呼び掛けを待っておられるからです。父なる神は救われて子供とされた私達の祈りの声を聞きたいと願っておられます。
 第二に、主は私達の信仰を求めておられるからです。ただ単に祈るだけならご利益宗教と同じでしょう。そうではなく、愛なる主が必ず祈りに応えて下さると信じて祈ることを主は求めておられるのです。
 第三に、主は祈りを通して、導きと力を与えて下さるからです。主はいつも朝早くに祈り、また大切な局面で必ず祈り導きを頂かれました。だからこそ力強い歩みをすることができました。私達も倣うべきなのです。
 もし私達が霊的に弱さを覚えているとしたら、その原因の一つは祈りが弱いことにあります。絶えず祈り歩みましょう。

<聖書のことば>
絶えず祈りなさい。
テサロニケ人への手紙第一5章17節

2016年6月12日日曜日

「ピラトによる裁判 後半」

マルコの福音書15章6~15節
2016年6月12日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 ピラトは無罪であったイエス様を釈放する為に二つの方法を試みました。一つは過越しの祭りにおける恩赦を利用することであり、二つ目はイエスを鞭打ちにすることでした。いずれも失敗し、結果的に死刑が確定しました。登場する人物の歩みについて見ましょう。
 第一に、人を恐れたピラトです。彼はユダヤ人が騒ぎ自分の立場が危うくなることを避けようとしました。彼は神よりも人を恐れたのです。
 第二に、流された民衆です。彼らはイエスかバラバかを問われた時に、指導者たちに言いくるめられ、バラバを釈放しイエスを十字架につけるように叫びました。かつては主を歓迎した彼らが流されてしまったのです。
 第三に、罪を免れた極悪人バラバです。彼はひどい罪人で裁かれて当然の者でありましたが、イエス様が身代わりになることとなり釈放されました。このバラバとは私たちを指していると言うことができます。
 罪の無い主が私たちの為に身代わりとなって下さいました。どんな時でも、このお方を見ていなければなりません。私たちを愛し身代わりとなられた主から目を離さないようにしましょう。

<聖書のことば>
それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
マルコの福音書15章15節

2016年6月5日日曜日

「ヘロデによる裁判」

ルカの福音書23章6~12節
2016年6月5日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 ヘロデによる裁判はマルコの福音書には記されていませんが、イエス様の裁判を体系的に理解する為に取り上げます。ヘロデを反面教師として学びましょう。
 第一に、面倒を避ける為に主を他者へ追いやりました。それはピラトもヘロデも、もしキリストを釈放してしまうなら面倒なことになるとわかっていたからです。今でもキリストを信仰するならば面倒なことになると、主を他へ追いやる人が多いのではないでしょうか。
 第二に、自分の思い通りに行かないと主をあざけりました。ヘロデは自分を楽しませてくれると思ったのに主が何もされなかったので、嘲弄しました。今でも、思い通りに行かないと、信仰を捨ててしまう人がおられます。
 第三に、誤ったものを喜びとしていました。ヘロデは自分を楽しませるものを喜ぶ人でした。今も同様の喜びを追及している人が多いのではないでしょうか。
 私達はヘロデと同じ歩みをしてはなりません。私達は恵みによって救われたのですから、揺るがない信仰を持ち、真の喜びを求めて歩みましょう。

<聖書のことば>
ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。
ルカの福音書23章8節