2016年12月25日日曜日

「すべての人を照らすまことの光」

ヨハネの福音書1章9節
2016年12月25日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 まことの光であるイエスキリストがこの世に来ようとしていました。どのような光のお方なのでしょうか。
 第一に、私たちの存在を照らす光です。当時見下されていた羊飼いたちに光が照らされました。主はすべての人を愛し救う為に来られました。
 第二に、私たちの罪を気づかせる光です。罪人は神から離れて闇へと歩み、その先には滅びが待っています。罪の解決が必要です。神はみことばの光を当てて、私たちに罪を気づかせて下さるのです。
 第三に、私たちに希望を与える光です。罪ゆえにさばかれて永遠の苦しみに入って当然だった私たちの為に、主は身代わりに死んで下さいました。このお方を信じるだけで救われることができます。そして神と共に歩むようになるのです。
 このお方を心に迎え入れる時に、闇から光へと歩みが変えられます。今日、心を開いてキリストを迎え入れ光の中を歩むようにしましょう。

<聖書のことば>
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
ヨハネの福音書1章9節

2016年12月18日日曜日

「ピリピ教会のための祈り」

ピリピ人への手紙1章9~11節
2016年12月18日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 パウロのピリピ教会に対するとりなしの祈りの内容が書かれています。
 第一に、愛がいよいよ豊かになるようにです。それにはみことばの深い理解が必要であり、真の知識によって愛が豊かにされていきます。
 第二に、真に優れたものを見分けることができるようにです。私たちの前に沢山の選択肢があります。その中で、何が神のみこころでそうでないのかを見極める目が必要です。その為にも、みことばを学び身に着けておく必要があるのです。
 第三に、義の実に満たされるようにです。キリストがやって来られる日に備えて、純真でつまづきを与えず、義の実に満たされて行くことです。みことばに信頼し聖霊の働きに身を委ねて歩む時に、主ご自身が実を結ばせて下さるのです。
パウロはピリピ教会の兄姉の為に熱心にとりなしていました。私たちも現状に満足しないで、これらの点で自分自身や他者の為に祈る者でありましょう。

<聖書のことば>
私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。
ピリピ人への手紙1章9~10節

2016年12月11日日曜日

「共に恵みにあずかる」

ピリピ人への手紙1章3~8節
2016年12月11日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 パウロは3つの恵みを覚えて喜んでいたことがわかります。
 第一に、共に福音を広めることにあずかる恵みです。元々パウロはクリスチャンを迫害していた者でしたが、変えられて福音を伝える者となりました。ピリピ教会の兄姉も変えられて、パウロの宣教を支援していたのです。その素晴らしい特権にあずかる恵みを喜びました。私たちもこの恵みを覚えて積極的に宣教の働きにあずかって行きましょう。
 第二に、共にとりなし合う恵みです。彼は牢獄の中でピリピ教会の兄姉の為に祈っていました。他者の為に祈る時に主は祝福され喜びで満たして下さいます。
 第三に、共に完成へと導かれる恵みです。主が働きを開始されたら途中で止められることはありません。完成へと近づけて下さるのです。ですから私たちは自分や人の現状を見て落胆してはならないのです。
私たちもこれらの素晴らしい恵みにあずかっています。この恵みに目を留めて喜んで歩む者でありましょう。

<聖書のことば>
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
ピリピ人への手紙1章6節

2016年12月4日日曜日

「キリスト・イエスのしもべ」

ピリピ人への手紙1章1~2節
2016年12月4日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 パウロは牢獄からピリピ教会の兄弟姉妹に宛てて手紙を書きました。この手紙には彼の喜びが満ちていることがわかります。
 まず、パウロの自己紹介ですが、彼は自分をキリスト・イエスのしもべと言いました。しもべとは奴隷のことです。否定的な意味でそう言った訳ではありませんでした。一つは主に買い取っていただいたという意味です。キリストの命という代価が支払われて、私たちも買い戻していただいたのです。もう一つは、素晴らしいお方のものとされているという意味です。奴隷は主人の社会的地位によって自分の価値を計りました。私たちは素晴らしいお方であるイエス様のしもべとされていることを覚えたいのです。
 次に、受取人についてですが、ピリピの兄弟姉妹を聖徒と呼びました。それは罪が無いという意味ではなく、神から選ばれわかたれた者という意味です。私たちもそのような恵みの立場に置かれているのです。
 大切なことは環境ではありません。誰のものとされ、しもべとされているのかが最も大切なことです。主のしもべとして喜びつつ歩みましょう。

<聖書のことば>
キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。
ピリピ人への手紙1章1節

2016年11月27日日曜日

「焼却されたみことば」

エレミヤ書36章21~32節
2016年11月27日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 主はエレミヤを通して、ユダに悔い改めるようにと語っておられましたが、王は心を頑なにし拒みました。3つの点で教えをいただきましょう。
 第一に、神を恐れみことばを受け入れることです。王は巻物を受け取りましたがそれを刻み焼いてしまいました。非常に愚かで恐ろしい行為をしたのです。私たちは同様にみことばを取り扱ってはなりません。
 第二に、忠告の大切さを覚えることです。3名の首長たちは王に対して巻物を焼かないように忠告しましたが、それを聞くことをしませんでした。忠告する大切さと忠告を受け入れる大切さを教えられます。
 第三に、確かなみことばに堅く立って歩むことです。エホヤキム王はみことばを焼却するように命じましたが、結果的にみことばは無くなるどころかさらに増やされて行きました。
 他人のすることは客観的に見ることができますが、自分自身がどうなのかを省みましょう。そしてクリスマスを前にして、みことばによって心を整えて頂きましょう。

<聖書のことば>
エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。
エレミヤ書36章23節

2016年11月20日日曜日

「サタンの攻撃パターン」

ペテロの手紙第一5章8~9節
2016年11月20日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 主はサタンに勝利されており、私たちも勝利者とされています。しかし、同時にサタンに対して十分に警戒するようにと聖書は教えています。サタンの攻撃パターンを確認しましょう。
 第一に、落胆へと導きます。教会の中で人を見て落胆させ、また自分や状況を見て落胆させます。
 第二に、高慢へと導きます。「神のみことばよりも私の考えの方が大切だ。神に従う必要はない」というように自分を高くさせます。
 第三に、神を疑うように導きます。アダム達を誘惑した時のように、神の愛や約束を疑わせて来ます。
 第四に、不品行や汚れに導きます。みことばよりも情欲の虜にさせます。
 第五に、不一致へ導きます。教会の秩序に従わないように、一致を乱すようにして来ます。
 これらを通し、私たちを神と教会から引き離そうとして来るのです。様々な事が起きて来ますが、それがサタンの攻撃であると見抜くことが大切です。悪魔は常に身近に存在しています。十分に警戒して立ち向かうようにしましょう。

<聖書のことば>
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
ペテロの手紙第一5章8節

2016年11月13日日曜日

「聖書の教える正しい価値基準」

創世記1章26~28節
2016年11月13日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 この世の価値基準は変わりやすく、絶対的なものではありません。私たちは流されないで聖書の教える価値基準によって歩む必要があります。
 第一に、私たちは神に造られた尊い存在であることです。能力や持ち物によらず、神によって造られたので尊い存在とされています。
 第二に、私たちには神の特別な目的があることです。神は私たちを個性的に造られました。そして、それぞれに計画と目的をお持ちです。
 第三に、私たちは神の栄光を現わす使命があることです。神を礼拝し、神に仕え、キリストについて証しし、主に似た者となり、神の栄光を現わすのです。
 第四に、私たちは永遠の存在として造られていることです。この世での生涯で終わりなのではありません。その後こそが本番なのです。
 私たちは何をゴールに据えて人生を歩んでいるでしょうか。聖書の教える正しい価値基準をもって、正しい目標に向かって人生を歩む者でありましょう。

<聖書のことば>
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
創世記1章27節

2016年11月6日日曜日

「キリストに従う者に」

マルコの福音書16章17~20節
2016年11月6日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 マルコの福音書の最後となります。私たちがなすべき3つのことを学びましょう。
 第一に、福音を至る所で伝えることです。イエス様は教会に、そして私たち一人一人に宣教の大命令を与えられました。罪ある者はやがて神にさばかれて永遠の地獄に行かなければなりませんが、この福音を信じさえすれば救われることができます。私たちはそれを伝える使命があるのです。
 第二に、主と共に働くことです。主は人を用いられて、ご自身の働きを進めて行かれます。私たちは救われて終わりではなく、主の為に奉仕をするように召されているのです。
 第三に、主に従う人生を送ることです。イエス様は私たちが歩むべき模範を残して下さいました。私たちは主の足跡に倣い、キリストに従う者であるべきなのです。
 私たちは誰の歩みに倣って人生を送るでしょうか。私たちはキリストの栄光の為に、キリストの足跡に倣い従う者となりましょう。

<聖書のことば>
そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
マルコの福音書16章20節

2016年10月30日日曜日

「優先順位」

ハガイ書1章1~13節
2016年10月30日 第5聖日
牧師 長江 忠司


 信仰生活において、正しい優先順位をもって歩むことが大切です。
 人の陥りやすい過ちは、神様のことを第二第三にしてしまうことです。イスラエルの民もせっかくエルサレムに帰還し神殿の再建工事にとりかかったにもかかわらず妨害にあい工事を中断していました。その間に神様よりも自分の家作りに励んでいたのです。それの方が良い暮らしができると思ったでしょうが、その結果彼らは多くの祝福を逃していました。これは私たちの信仰生活においても起こりうることです。
 次に、正しい優先順位をもって歩む為の秘訣を学びましょう。
 第一に、現状をよく考えることです。自分がどれだけ恵みの中に置かれているのか、そして主が何を望んでおられるのかを考えることです。
 第二に、神に信頼することです。神の国とその義を第一にする時に、主の祝福が与えられます。その主の約束に信頼するのか、他のものに信頼するかが問われているのです。
 回り道をしない為にも、正しい優先順位をもって歩みましょう。

<聖書のことば>
「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。 今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
ハガイ書1章4~5節

2016年10月23日日曜日

「宣教の大命令」

マルコの福音書16章15~16節
2016年10月23日 第4聖日
牧師 長江 忠司


 イエス様は天に上がられる前に、弟子達に対してこの大命令を与えられました。ですから、私たちは教会としても個人としても、この大命令を受けとめるべきです。
 第一に、伝える対象は全世界の全ての造られた魂です。近い関係にある人、近い場所にいる人だけではありません。全世界の魂です。
 第二に、伝えるべきは福音です。道徳的なことではなく、キリストの福音を伝えることです。福音こそが人に救いを与えます。そしてキリストの弟子を育成することです。
 第三に、バプテスマを受けることです。バプテスマは信じて救われた者が次になすべきことであり、弟子になる為のプロセスです。
 この大命令を実行する上で大切なことは、神の権威が与えられていることと、主が共におられることを覚えることです。今もほとんどの方が滅びに向かって進んでおられます。この大命令を実行する者でありましょう。

<聖書のことば>
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
マルコの福音書16章15節

2016年10月16日日曜日

「キリストにある農夫」

テモテへの手紙第二2章6節
2016年10月16日 第3聖日
牧師 長江 忠司


 キリストの働き人とは農夫のようなものであると教えられています。
 第一に、収穫のために労苦が必要です。農夫はたとえ暑くても寒くても畑に出て手入れをする必要があります。私たちも畑に出て行って、魂に福音をお伝えし霊的な世話をしていく必要があります。
 第二に、収穫のために忍耐が必要です。種を植えてすぐに芽が出て実を結ぶということはありません。忍耐の期間がどうしても必要です。同様に、魂の現状を見ると諦めてしまいそうになりやすい私たちですが、忍耐をもって祈り証しすることが大切です。
 第三に、収穫の分け前には労苦した農夫があずかります。魂を成長させて下さるのは神です。しかし、やはり信仰をもって労苦し献げた者に、主は魂の収穫という祝福にあずからせて下さるのです。
 キリストにある兵士、競技者、農夫。そこに共通するものは、豊かな勝利と収穫を目指し、備えるべきだということです。魂の収穫のためにビジョンをもって励んで行きましょう。

<聖書のことば>
労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。
テモテへの手紙第二2章6節

2016年10月9日日曜日

「聞く耳をもつ」

ルカの福音書8章8節
2016年10月9日 第2聖日
牧師 長江 忠司


 イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。これはしっかりと聞くように、また聞く耳を持つようにという意味です。
 第一に、それは貪欲に聞くことです。生まれたばかりの乳飲み子の様にみことばの乳を慕い求めるようにと教えられています。みことばの乳なくして、クリスチャンが成長することはありません。
 第二に、謙遜に聞くことです。幼子のように素直にみことばを聞き受け入れることです。選り好みしてはなりません。
 第三に、聞いて応答することです。聞きっぱなしではなく、従う選択をすることです。信仰により実行することが求められるのです。
 霊的に成長されるクリスチャンは、そのような聞く耳を持っていると言う事ができます。私たちはどのような耳を持って、信仰生活を歩んでいるでしょうか。聞く耳を持ち祝福された歩みをさせていただく者でありましょう。

<聖書のことば>
また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。
ルカの福音書8章8節

2016年10月2日日曜日

「聖霊に導かれて歩む」

ヨハネの福音書14章26節
2016年10月2日 第1聖日
牧師 長江 忠司


 キリストを信じて救われた者には聖霊が内住して下さっています。このお方は様々な働きをされますが、その一つは私たちを導くことです。
 第一に、主のみことばに従って導かれます。御言葉の教えに反しては導かれません。たとえば、礼拝を休むようには導かれません。主のみこころは礼拝を第一とすることだからです。
 第二に、主を証しするように導かれます。使徒の働きに聖霊に満たされた時に彼らが大胆に語り出したことが記されています。彼らは聖霊の力によって語ることができました。
 第三に、主のみこころへと導かれます。パウロの伝道旅行において、聖霊が主のみこころのままに彼らを導かれました。その結果、豊かな祝福が待っていました。
 かつて初代教会の一人一人を強められた聖霊は、同様に私たちの内に住んでおられ強めて下さいます。ですからよく主と交わり、聖霊に明け渡して歩むように致しましょう。

<聖書のことば>
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
ヨハネの福音書14章26節

2016年9月25日日曜日

「神の作品である私たち」

エペソ人への手紙2章10節
2016年9月25日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 私たちは人の持つ物や能力で人を評価してしまいがちです。しかし、人が何を持っているかということよりも、何者であるのかが大切です。
 第一に、私たちは神の作品です。全てを支配されている唯一真の神により創造されたので、神の前に尊い存在とされています。
 第二に、私たちは神と向き合う必要があります。ほとんどの人は創造主である神に背を向けて歩んでいます。それ故に心の満たしは無いし、逆に恐れがあるのです。神と向き合うことによって初めて人生の目的を見出すことができます。
 第三に、私たちは神によって自分らしい歩みをすることができます。他の人と比較するのではなく、造られた神と交わることです。そうしてこそ私たちは自分を愛するようになり自分らしく生きることができるのです。
 主は私たちを愛し生かして下さっています。神の作品である私たちは創造者である主に目を向け、よく交わって歩むようにしましょう。

<聖書のことば>
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
エペソ人への手紙2章10節

2016年9月18日日曜日

「復活の主と弟子達」

マルコの福音書16章12~14節
2016年9月18日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 復活のイエス様と弟子達について見て行きましょう。
 第一に、弟子達の不信仰です。彼らは復活の主とお会いし話したマグダラのマリヤや他の弟子達の話を信じようとはしませんでした。それ程に頑なだったのです。
 第二に、イエス様の恵みによる現れです。彼らはあれだけ不信仰だった訳なので主からいい加減見捨てられていてもおかしくはない存在でした。しかし主は恵みによりなおも彼らの前に姿を現わされたのです。主は「わたしの手を見なさい」と言われました。私たちも主の御手に頼るべきです。
 第三に、イエス様のみこころについてです。それは見ずに信じることでした。見えないと信じないというのはもはや信仰ではありません。事実を認識しているだけです。
 私たちも不信仰になりやすい者です。しかし、信仰を働かせましょう。生きておられる主を信じ、その御手に頼る者でありましょう。

<聖書のことば>
しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。
マルコの福音書16章14節後半

2016年9月11日日曜日

「カレブに学ぶ信仰の姿勢」

ヨシュア記14章6~14節
2016年9月11日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 本日は敬老感謝礼拝です。年老いても信仰により前進し続けたカレブから、信仰の姿勢について学びましょう。
 第一に、信仰の前進に年令は関係ないことです。カレブは85歳となり、普通であれば体力気力が衰えている筈の年令でした。しかし彼は尚も壮健で、主への信仰を働かせてヘブロンを求めて前進したのです。
 第二に、信仰を次世代に継承すべきことです。彼はキルヤテ・セフェルを攻めるに際し新たなリーダーを求めました。主は次の世代へ信仰を継承することを願われており、私達は自分の代で信仰を終わらせてはならないのです。
 第三に、信仰は従い通すことが大切だということです。彼は決断、信頼、希望と忍耐において、主に従い通しました。
 主は私達を愛し、実に十字架の死にまでも従われました。そうなのですから、私達もカレブ同様に、最後まで主に従い通す者でありましょう。

<聖書のことば>
しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力 と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
ヨシュア記14章11節

2016年9月4日日曜日

「マグダラのマリヤと復活の主」

マルコの福音書16章9~11節
2016年9月4日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 復活されたイエス様が一番初めに姿を現わされたのはマグダラのマリヤでした。彼女の歩みから教えをいただきましょう。
 第一に、彼女の心には主への深い愛がありました。彼女はかつて7つの悪霊にとりつかれていましたが、主によって悪霊を追い出していただき、深く主を愛していました。主から愛された者ほど深く主を愛します。
 第二に、彼女はみことばにより、復活の主に気づきました。彼女も主が復活されたと信じていませんでしたが、主のみことばにより復活の主に気づき喜びに変えられました。みことばにより生きておられる主に気づき、力が与えられます。
 第三に、彼女は復活の主の証人となりました。かつては汚れていたマリヤが復活の主の最初の証人として用いられました。
 主はふさわしくない者を選ばれると同時に、主を心から愛する者を用いて下さるのです。

<聖書のことば>
さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現された。
マルコの福音書16章9節

2016年8月28日日曜日

「重荷を主に委ねよ」

詩篇55篇1~23節
2016年8月28日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 ダビデは悩みと苦しみの中にありましたが主に重荷を委ねることの素晴らしさを語りました。何故、主に重荷を委ねるべきなのでしょうか。
 第一に主は私達を苦しみから救い出して下さるからです。ダビデはこれまでに主によって救い出された経験から、その確信がありました。主は十字架にかかり私達を救い出されたように、救い出して下さいます。
 第二に主が私達のことを心配して下さるからです。私達は将来のことを考えると恐れ心配してしまう者です。しかし主は積極的に私達に関与し支えて下さるのです。
 第三に主は私達の全てを益として下さるからです。問題だけを見ると私達は混乱してしまいますが、主は最終的な全体像をご存知の上で問題を与えられています。
 主は全て疲れている方に、救いの手をのべておられます。私達はいつまでも自分で重荷を背負っていないで、全ての重荷を代わりに背負って下さる主におゆだねして、平安と喜びの内を歩ませて頂きましょう。

<聖書のことば>
あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
詩篇55篇22節

2016年8月21日日曜日

「空の墓」

マルコの福音書16章1~8節
2016年8月21日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様が葬られて3日目、墓における出来事が記されています。
 第一に、女性たちが主の御そば近くへ行こうとしました。マリヤたちは安息日が終わり日曜日の朝に墓へと向かいました。主の為に何かさせて頂きたいという切なる思いがあったからでした。
 第二に、主は死に打ち勝たれました。ローマにより墓は封印され兵士がついて番がされていました。しかし主はその様な一切のものをはねのけ死に打ち勝たれたのです。主は権威あるお方であり、このお方にできないことは何一つありません。
 第三に、墓の中は空になっていました。彼女たちは主の遺体が墓にあると信じていました。しかし御使いは「ここにはおられません」と彼女たちに告げたのです。主は生きて墓の外へ出られていました。
 私達が信じているのは、死んだままのお方ではありません。今も生きておられる全能の力をお持ちのお方です。墓の中に主を見出そうとする信仰ではなく、生きておられる主に信頼する信仰で歩みましょう。

<聖書のことば>
「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
マルコの福音書16章6節

2016年8月14日日曜日

「イエス様の埋葬を通して」

マルコの福音書15章42~47節
2016年8月14日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様の埋葬を通して教えをいただきましょう。
 第一に、聖書のみことばが成就しました。骨が折られないこと、突き刺されたこと、墓に埋葬されることなど、その他にも多くの点で預言されていたみことばが成就しました。その事実からも、みことばに間違いは無く完全に信頼することができることがわかります。
 第二に、心を動かされ一歩を踏み出した人たちがいました。アリマタヤのヨセフとニコデモです。彼らはまず、明確な立場を取りました。それまでは隠れて信仰を守っていましたが、公に立場を表明しました。次に、自分の持てる最高を献げました。ヨセフは墓を、ニコデモは高価で大量の没薬とアロエを混ぜたものを献げたのです。主が私達の為に献げられたものを理解する時に、私たちは心動かされて一歩を踏み出し献げるようになるのです。
 ヨセフとニコデモはここぞという時に決心し一歩を踏み出しました。私たちも同様に一歩を踏み出す者でありましょう。

<聖書のことば>
アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。
マルコの福音書15章43節

2016年8月7日日曜日

「十字架の周りにいた人たち」

マルコの福音書15章36~41節
2016年8月7日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様が十字架で死なれた時に、その周りにいた人たちを通して教えをいただきましょう。
 第一に、主を傍観する人です。彼らはイエス様のおことばを聞いて、エリヤがやって来ると考えたようです。それで、全人類の身代わりになられている主を興味本位で傍観しただけでした。
 第二に、主を認めた人です。ローマの百人隊長はイエス様を十字架につける指揮をした人物だったでしょうが、その様子を見る中で思いが変えられたのでしょう。この方はまことに神の子であったと言いました。
 第三に、主に最後まで従う人です。身の危険が及ぶ可能性があったにもかかわらず、彼女たちは十字架までも従っていました。たとい自分に苦しみが及ぼうとも主の道から離れない。それこそが本物の信仰です。
 主は私たちの為に最後まで十字架で苦しんで下さいました。信仰生活の中で色々な事が起きて来ますが、最後の最後まで信仰を守り通す者でありましょう。

<聖書のことば>
イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。
マルコの福音書15章41節

2016年7月31日日曜日

「恵みの御座に近づこう」

マルコの福音書15章38節
2016年7月31日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様が十字架で息をひきとられた時に幾つかの不思議な現象が起こりましたが、その一つが神殿の幕が裂けたことでした。これは神殿の聖所と至聖所を分ける幕であり、神と人との隔たりが除かれたことを表わしています。ヘブル書を見つつ、2つのことを学びましょう。
 第一に、大胆に恵みの御座に近づくべきことです。かつては罪ある人間が神に近づくことができませんでしたが、キリストの死によって、神と人とを妨げるものは無くなりました。私達は大胆に神の御前に進み出ることができます。しかも大祭司である主は、私達の苦しみや悲しみを理解し同情することがおできになります。
 第二に、全き信仰と真心をもって神に近づくべきことです。二心であってはいけません。信仰が無ければ神に喜ばれることはできないのです。信仰をもって近づく者を主は喜び、豊かに応えて下さるのです。
 この素晴らしい恵みを無駄にしてはいけません。大胆に且つ信仰をもって、恵みの御座に近づくものでありましょう。

<聖書のことば>
神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
マルコの福音書15章38節

2016年7月24日日曜日

「十字架上でのおことばを通して」

マルコの福音書15章33~37節
2016年7月24日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様は十字架につけられている間、7つのおことばを語られました。今日は4~6番目に語られたおことばについて学びましょう。
 第一は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」です。これは衝撃的な内容です。そのおことば通り、イエス様は父なる神様との関係が断絶され、神から捨てられた者となられました。私達の身代わりに神の怒りを受けられたのです。
 第二は「わたしは渇く」です。大量の血液が流れ出ると、喉が異常に渇きます。渇くことのないお方が私達の為に渇きを覚えられました。
 第三は「完了した」です。主は全人類を贖う御業を、ご自身をささげることにより完了して下さったのです。クリスチャンにとって、もはや神の前に赦されていない罪はありません。
 「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というおことばは、確かに神に見捨てられた絶望の祈りですが、同時に希望の祈りでもありました。主は私達をも、決して絶望に終わらせられることはないのです。

<聖書のことば>
そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコの福音書15章34節

2016年7月17日日曜日

「悔い改めた罪人」

ルカの福音書23章39~43節
2016年7月17日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様と共に二人の犯罪人が十字架にはりつけになりました。その内の一人は途中で悔い改めて救われたのです。救いに必要な要素について確認しましょう。
 第一に、悔い改めと信仰のみです。一切の行いは要りません。彼は犯罪者であり十字架につけられていて何も良い行いをできませんでしたが、悔い改め主を信じただけで救われることができました。
 第二に、そのままで受け入れられます。彼は道徳的にきよめられてから救われたのではなく、そのままで愛され受け入れて頂いたのです。
 次に救われた者の歩みについて確認しましょう。
 第一に、天国に行くことができます。彼はパラダイスにいることを宣言されました。私たちも間違いなく天の御国に入れて頂くことができます。
 第二に、永遠に主と共に歩みます。かつては神から離れており永遠に離れている筈の者でしたが、永遠に主と共に歩むことができるのです。
 救われるのに遅すぎる人はおりません。語られている今日信じましょう。

<聖書のことば>
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
ルカの福音書23章42節

2016年7月10日日曜日

「十字架の苦しみ」

マルコの福音書15章22~32節
2016年7月10日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様が十字架につけられた箇所から学びましょう。
 第一に、主は人類の嘲りを受けられました。まず民衆から。ユダヤ人指導者から。ローマ兵から。そして受刑者から。これが人間の神に対する態度を象徴しています。全ての人間は神に対する恐れがないのです。
 第二に、主は十字架の苦しみを受けられました。この刑は絞首刑のように一瞬にして死ぬことができるようなものではありませんでした。肉体的に恐ろしい苦しみと精神的には屈辱を味わいながら、ジワジワと死んでいったのです。主は余すところなく、その苦しみの杯を飲み干されました。
 第三に、主はとりなしの祈りをなされました。ご自分を十字架につけ命を取ろうとしている者たちの赦しの為に祈られたのです。その祈りの「彼ら」には、私たちも含まれているのです。
 神の一人子イエス様は私たちを愛して、この十字架で苦しんで死なれました。その主の御愛に対して、私たちはどう応答するでしょうか。主の為に成したことだけが残ります。このお方に献げて行きましょう。

<聖書のことば>
また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
マルコの福音書15章31節

2016年7月3日日曜日

「礼拝のメッセージについて」

2016年7月3日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 礼拝では毎回、聖書からメッセージが語られます。当たり前なことだけに認識があまくなってしまいがちです。もう一度メッセージについて確認しましょう。
 第一に、メッセージは礼拝の中心であり、いのちです。これによって教会は養われ成長していくことができます。メッセージが祝福されないなら、祝福をいただくことはできません。ですから、横浜教会の講壇が祝福されるようにお祈りいただきたいのです。
 第二に、メッセージは「私に語られている」と受け止めることです。メッセージは会衆の全員に語られるのですが、同時に一人一人に語られていると言うことができます。他人事のように聞くのではなく、「今まさに、主が私に語られている」と捉え心を開いて聞くことが大切です。
 第三に、メッセージに応答することです。主が語られた事に対して応答することを主は願っておられます。聞きっぱなしで終わるのではなく、示されたら応答するようにしましょう。
 正しい態度でメッセージを聞く人に、主は豊かな実を結ばせられます。

<聖書のことば>
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。
マタイの福音書13章23節

2016年6月30日木曜日

「ヴィア・ドロローサ」

マルコの福音書15章16~21節
2016年6月26日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 ローマの政治裁判において、イエス様に何の罪も見出すことができなかったにもかかわらず、ユダヤ人指導者や民衆におされてピラトは死刑判決を下しました。この後のイエス様の歩みについて見て行きましょう。
 第一に、主は嘲りを受けられました。ローマ兵たちは嘲りの言葉と暴力をもって、主を好き放題に扱いました。主はそれでも黙っておられました。
 第二に、主は苦難の道(ヴィア・ドロローサ)を歩まれました。ローマの鞭を受けられて全身ひどい傷と痛みがある中で横木を背負い、ゴルゴタの丘へ向けて歩き始められました。途中でクレネ人シモンが担うことになりましたが、イエス様は私たちの為に、一人苦しみの道を歩まれました。
 第三に、主は人々を救おうとされました。嘆き悲しむ婦人に対して、主はやがて訪れるエルサレムの崩壊とそこから救われるように言われました。主はこの局面にあっても、人々の救いを願っておられました。
 私たちも時に苦しみを経験することがあります。しかし、主が私たちの前に苦しみの道を歩まれました。そのお方が私たちと共に歩んで下さることを忘れないでいましょう。

<聖書のことば>
彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
マルコの福音書15章20節

2016年6月19日日曜日

「絶えず祈る」

テサロニケ人への手紙第一5章17節
2016年6月19日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 絶えず祈るように教えられています。これは祈祷院の様な場所で24時間祈り続けるということではありません。要所要所でよく祈り、且つ短い時間であっても祈りつつ歩むことを意味しています。なぜ、私達は絶えず祈ることが必要なのでしょうか。
 第一に、主は私達からの呼び掛けを待っておられるからです。父なる神は救われて子供とされた私達の祈りの声を聞きたいと願っておられます。
 第二に、主は私達の信仰を求めておられるからです。ただ単に祈るだけならご利益宗教と同じでしょう。そうではなく、愛なる主が必ず祈りに応えて下さると信じて祈ることを主は求めておられるのです。
 第三に、主は祈りを通して、導きと力を与えて下さるからです。主はいつも朝早くに祈り、また大切な局面で必ず祈り導きを頂かれました。だからこそ力強い歩みをすることができました。私達も倣うべきなのです。
 もし私達が霊的に弱さを覚えているとしたら、その原因の一つは祈りが弱いことにあります。絶えず祈り歩みましょう。

<聖書のことば>
絶えず祈りなさい。
テサロニケ人への手紙第一5章17節

2016年6月12日日曜日

「ピラトによる裁判 後半」

マルコの福音書15章6~15節
2016年6月12日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 ピラトは無罪であったイエス様を釈放する為に二つの方法を試みました。一つは過越しの祭りにおける恩赦を利用することであり、二つ目はイエスを鞭打ちにすることでした。いずれも失敗し、結果的に死刑が確定しました。登場する人物の歩みについて見ましょう。
 第一に、人を恐れたピラトです。彼はユダヤ人が騒ぎ自分の立場が危うくなることを避けようとしました。彼は神よりも人を恐れたのです。
 第二に、流された民衆です。彼らはイエスかバラバかを問われた時に、指導者たちに言いくるめられ、バラバを釈放しイエスを十字架につけるように叫びました。かつては主を歓迎した彼らが流されてしまったのです。
 第三に、罪を免れた極悪人バラバです。彼はひどい罪人で裁かれて当然の者でありましたが、イエス様が身代わりになることとなり釈放されました。このバラバとは私たちを指していると言うことができます。
 罪の無い主が私たちの為に身代わりとなって下さいました。どんな時でも、このお方を見ていなければなりません。私たちを愛し身代わりとなられた主から目を離さないようにしましょう。

<聖書のことば>
それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
マルコの福音書15章15節

2016年6月5日日曜日

「ヘロデによる裁判」

ルカの福音書23章6~12節
2016年6月5日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 ヘロデによる裁判はマルコの福音書には記されていませんが、イエス様の裁判を体系的に理解する為に取り上げます。ヘロデを反面教師として学びましょう。
 第一に、面倒を避ける為に主を他者へ追いやりました。それはピラトもヘロデも、もしキリストを釈放してしまうなら面倒なことになるとわかっていたからです。今でもキリストを信仰するならば面倒なことになると、主を他へ追いやる人が多いのではないでしょうか。
 第二に、自分の思い通りに行かないと主をあざけりました。ヘロデは自分を楽しませてくれると思ったのに主が何もされなかったので、嘲弄しました。今でも、思い通りに行かないと、信仰を捨ててしまう人がおられます。
 第三に、誤ったものを喜びとしていました。ヘロデは自分を楽しませるものを喜ぶ人でした。今も同様の喜びを追及している人が多いのではないでしょうか。
 私達はヘロデと同じ歩みをしてはなりません。私達は恵みによって救われたのですから、揺るがない信仰を持ち、真の喜びを求めて歩みましょう。

<聖書のことば>
ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。
ルカの福音書23章8節

2016年5月29日日曜日

「礼拝での救いの証しについて」

2016年5月29日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 奉仕者訓練会でも複数の意見が出ていましたが、もう一度礼拝における救いの証しについて確認しましょう。
 第一に、自分の救いに関する証しです。かつては神を信じなかった者がどのようにして救いに至ったのかを語ります。近況報告や最近恵まれたことを中心に話すものではありません。
 第二に、神に栄光を帰するものです。神の恵みによって救われた訳ですから、自分にではなく神に栄光を帰します。証しを聞かれた方が神様の素晴らしさだけが印象に残るように語るのが本当の証しです。
 第三に、時間を守ることが大切です。礼拝の中心は、聖書から語られるメッセージです。証しが長くなりますと、その結果メッセージを短くせざるを得なくなります。そうならないようにあらかじめ準備して、3分以内にまとめるようにしましょう。
 救いの証しは素晴らしいものです。兄姉の救いの証しが用いられて、魂が救いに導かれるように祈りましょう。

<聖書のことば>
私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。
使徒の働き5章32節

2016年5月22日日曜日

「ピラトの裁判 前半」

マルコの福音書15章15章1~5節
マタイの福音書27章3~10節
2016年5月22日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 ローマの政治裁判に移されました。ローマの総督ピラトが裁判を行いました。裁判の説明を聞き理解した上で、二つのことを学びましょう。
 第一に、沈黙を通して、愛を注がれた主についてです。彼らは、ありもしない、イエス様に不利な証言をし続けましたが、イエス様は何もお答えにならず沈黙を保たれました。言い返せなかったのではなく、イエス様は私達を贖う為に沈黙し、真っ直ぐに十字架に向かわれていたからでした。このお方の愛がいつも注がれていることを覚えるべきです。
 第二に、真理を軽んじたピラトについてです。イエス様に対して「真理とは何か」と問うておきながら、答えをいただかずして去りました。彼は真理のお方を目前にしていながら真理を軽んじたのです。全ての人はこの真理なるお方を心に迎え入れるべきなのです。
 私達はこの素晴らしい真理のお方を心に迎え入れることができました。その恵みを心から感謝するようにしましょう。それだけでなく、この真理のお方を人々にお伝えするようにしましょう。

<聖書のことば>
ピラトはイエスに尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」
マルコの福音書15章2節

2016年5月15日日曜日

「ユダの失敗」

マルコの福音書15章1節
マタイの福音書27章3~10節
2016年5月15日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 夜が明けて議会で宗教裁判が行われ、イエス様の死刑判決が確定しました。ユダは後悔し命を絶ったのです。ユダとペテロの違いについて見ましょう。
 第一に、ユダは後悔しただけでした。彼は悔い改めることはしないで後悔しただけでしたので自殺へと至りました。悔い改めとは心を神に向けて方向転換することであり、これこそ私達に必要なことです。
 第二に、ユダは重荷の持って行く先を誤りました。彼は祭司長たちの所へ行って自分の過ちを告白しました。彼らはユダを突き放したのです。私達も重荷の持って行く先を間違えてはいけません。
 第三に、ユダは無条件の主の愛を受け入れませんでした。主は裏切り者のユダさえも愛しておられましたが、彼はその愛を受け入れませんでした。私達も無条件に注がれている主の愛を覚え受け入れて歩むことが大切です。
 失敗は誰にもあることです。大切なのはその後です。ユダの様にではなく、ペテロの如くに主の元へ行き悔い改めを持って歩むものでありましょう。

<聖書のことば>
そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。
マタイの福音書27章3~4節

2016年5月8日日曜日

「やもめの信仰」

列王記第一17章8~24節
2016年5月8日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 本日は母の日感謝礼拝です。今日はツァレファテのやもめの信仰に注目しましょう。
 第一に、主の約束を信じて従いました。彼女は僅かな食料しかありませんでしたが、主が食料を備えるという主の約束を信じてその通りにしました。
 第二に、主の働き人をもてなしました。それは主に対してなしたのと同じことです。私達も宣教に携わる働き人を支援し、もてなすことが大切です。
 第三に、主の御言葉の真実さを証ししました。彼女は死んでいた息子のよみがえりを経験して、主の御言葉が真実であると確信し告白したのです。私達も形式的にではなく、心から確信をもって御言葉の真実さを証ししたいのです。
 彼女はこの後、確かな信仰をもって息子を育てたと思われます。困難な状況にあっても御言葉は真実であり、従うべきものであると母親の姿勢から学んだことでしょう。私達も主の御言葉に明確に従い、周りの方に良い影響を与えるようなダイナミックな信仰生活を送るようにしましょう。

<聖書のことば>
その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
列王記第一17章24節

2016年5月1日日曜日

「ペテロの失敗」

マルコの福音書14章66~72節
2016年5月1日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様がカヤパの官邸で裁判にかけられている時、ペテロはその庭で火にあたっておりました。そして女中から声をかけられると、三度も主を知らないという失敗を犯しました。彼は以前であればいつも主の近くを歩んでいましたが、今は主と距離をあけるようになっていました。私達も主との距離について考えさせられます。その上でペテロが知ったことについて学びましょう。
 第一に、彼は自分の弱さを知りました。それまでは自分の信仰について自信を持っていました。しかし、本当は全く強くないことを知ったのです。
 第二に、彼は恵みに溢れた主の愛を知りました。彼が主を完全に否定することも全てご存知の上で、彼の為にとりなし、また再び用いるご計画をお持ちでした。彼は後悔だけではなく主の愛に感動した涙を流したのでしょう。
 誰でも失敗しますが、主はそれでも尚、私達を愛して下さり用いて下さいます。だから、主から示されたら悔い改めるものでありましょう。

<聖書のことば>
しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。
マルコの福音書14章71節

2016年4月24日日曜日

「偽りの裁判」

マルコの福音書14章53~65節
2016年4月24日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様はここから宗教裁判と政治裁判を受けられます。当時の律法に違反している極めてでたらめな裁判でした。夜中に行われ、彼らは民衆が起きる前に死刑判決まで進めてしまおうと考えていました。まずアンナスによる裁判、次に大祭司カヤパによる裁判と進められました。どんなに不利な証言をされても主は黙っておられたのです。これらの事から2つのことを学びましょう。
 第一に、大祭司はキリストを排除しようと必死だったことです。彼らは当時の多くの律法を違反してまでも、この裁判を進めていました。しかし実は全ての人間にも同じ罪の心があるのです。
 第二に、イエス様は沈黙をもって、弟子達を守ろうとされました。また、自らが犠牲となり全人類を救おうとされました。
 主は今でも私達を愛し、いかなる時でも私達を守り導こうとされておられます。私達はそのような主に感謝してお仕えして行きましょう。また、主の模範に倣って、試練を耐え忍び勝利して歩みましょう。

<聖書のことば>
さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。
マルコの福音書14章55節

2016年4月17日日曜日

「キリストの捕縛」

マルコの福音書14章43~52節
2016年4月17日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様がゲッセマネで祈られた直後に、兵士や役人、群衆たちがやって来ました。異様で恐ろしい雰囲気だったことでしょう。しかし主は堂々と彼らの前に進み出られました。そして主は捕縛されたのです。ここから二つの事を学びましょう。
 第一に、主のご支配があったことです。ユダヤ人指導者の企みで進められたように見えますが、全ては神のご計画に沿って進められていました。そして主は過越しのいけにえの如く、全人類のいけにえとして死んで下さいました。
 第二に、主のお守りがあったことです。捕縛の場面でも、弟子達を守ろうとする主のお姿を見ることができます。主は今もその如くに私達を必ずお守り下さるのです。
 キリストの捕縛は無様に思えるかもしれませんが、そうではありません。そこにも主の偉大さと愛とを知ることができます。いかなる場合も、このお方に頼り歩むようにしましょう。

<聖書のことば>
そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現れた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。
マルコの福音書14章43節

2016年4月10日日曜日

「ゲッセマネでの祈り」

マルコの福音書14章32~42節
2016年4月10日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様は弟子達を伴われてゲッセマネの園で祈られました。時は夜中で数時間の間、油絞られる如くに心を注ぎ出して祈られました。弟子達とイエス様について順番に確認しましょう。
 まず弟子達ですが、彼らは祈ることなく眠っておりました。イエス様は誘惑に陥らないように祈るようにと言われていましたが、彼らは悲しみと疲れの為に寝てしまっていたのです。私たちも幾ら主に従いたいという良い志があったとしても、私達は強くはありません。どこまでも弱いのです。だから主に祈り、より頼んでいかなければなりません。
 次にイエス様です。イエス様は三度の祈りをなされましたが、祈るごとに内容が変えられているのがわかります。そのように祈りとは、自分を主のみこころに合わせて行くことです。心注ぎ出して主に祈る時に、私たちも変えられてみこころに沿った祝福のある歩みをすることができるのです。
 イエス様は祈りによって勝利して歩まれました。私たちは祈りによって勝利しているでしょうか。祈りの生活を省みましょう。

<聖書のことば>
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。
マルコの福音書14章38節

2016年4月3日日曜日

「誤った態度」

マルコの福音書14章27~31節
2016年4月3日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様はもうじき弟子達の身に起こることをご存知で、彼らに語られました。しかし、彼らの態度は正しいものではありませんでした。
 第一に、みことばを心に受け入れていませんでした。主の死と復活、その後ガリラヤで会うことまで語られていましたが、彼らは心に受け入れていなかったのです。ですから彼らは恐れ、後に主の復活をも疑いました。
 第二に、見るべきものが間違っていました。人と比較し、自分だけは大丈夫と考えていました。彼らが見るべきものは人ではなく、主だけであったのです。
 第三に、主の愛に気づいていませんでした。主は彼らが犯す罪を全てご存知でしたが、それでも尚、彼らを愛し赦しておられました。その愛に気づいていなかったのです。
 どのような状況に入れられるかわかりませんが、大切な事は如何なる場合でも主の前に正しい態度を取ることです。彼らの誤った態度にならわずに、主の前に正しい態度をもって歩むようにしましょう。

<聖書のことば>
すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
マルコの福音書14章29節

2016年3月27日日曜日

「復活のすばらしい希望」

ルカの福音書24章1~11節
2016年3月27日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 キリストの復活の客観的な証拠について見ましょう。キリストの墓が空になっていたこと。目撃証人が多いこと。弟子達が別人のように変えられたこと。キリスト教会の誕生と発展していること等です。
 次に、復活の主はどのような希望を与えて下さるでしょうか。
 第一に、私たちもよみがえるという希望です。主が再び空中に来られる時、私たちの肉体はよみがえり新しい栄光の体が与えられます。
 第二に、完全な主のみことばに頼ることができるという希望です。不可能を可能として死に勝利された方の完全なみことばに、私たちは全面的に信頼することができます。
 第三に、今の奉仕は無駄にならないという希望です。主の為にささげる奉仕の全てを主は覚えておられ、正しく報いて下さいます。
 復活の主から来る希望を握りしめているかどうかが、祝福ある歩みを送るかどうかの分かれ目となります。いつも復活の主を見上げて歩みましょう。

<聖書のことば>
ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
ルカの福音書24章6節

2016年3月20日日曜日

「進んでささげる者に」

出エジプト記35章4~10節
2016年3月20日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 主はイスラエルの民に幕屋を建てるように語られました。ささげる上で大切なことは何でしょうか。
 第一に、心から進んでささげることです。彼らの持っていた財産も、エジプトを脱出することができたのも、全ては主から頂いたものでした。その事実を覚えて心から進んでささげることを求められたのです。今も主は、物質的なもの以上に、私たちの主への心を求めておられます。
 第二に、委ねられている賜物をささげることです。技術的な賜物をもった者は来て働きに携わるように言われました。主は私たちにも、委ねられている賜物を用いて、主の宮の建設の為にささげることを願っておられるのです。
 民は感動して、主にささげものを持って来ました。それはあまりにも多くて途中で止めさせなければならない程でした。主の為にささげる者を主は必ず祝福し報いて下さいます。私たちは本当に価値あるお方の為、そして主の宮の為に、感動して心から進んでささげる者でありましょう。

<聖書のことば>
あなたがたの中から主への奉納物を受け取りなさい。すべて、心から進んでささげる者に、主への奉納物を持って来させなさい。
出エジプト記35章5節

2016年3月13日日曜日

「最後の晩餐」

マルコの福音書14章22~25節
2016年3月13日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様と弟子たちは最後の晩餐の時を持ちました。これは過越しの祭りの食事のことであり、それは細かく手順が決まっておりました。イエス様たちはその手順に従って進められたことがわかります。誤解されている部分も少なくないので、過越しの食事について礼拝で説明します。それらを踏まえて、2つのことを学びましょう。
 第一に、イエス様は犠牲の子羊となられたことです。過越しの食事でほふられる子羊とイエス様が多くの点で共通点があることがわかります。主は私たちの為に十字架にかかり血を流し死んで下さいました。
 第二に、イエス様は新しい契約を結ばれました。エレミヤ書で預言されていた新しい契約について言及されました。イエス様の十字架の死によって完全に成就し、キリストを信じるすべての民族、国民に提供されるようになったのです。
 イエス様たちの最後の晩餐の時を覚えつつ、本日、主の晩餐にあずかりましょう。

<聖書のことば>
それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
マルコの福音書14章22節

2016年3月6日日曜日

「生きざま」

使徒の働き20章18~35節
2016年3月6日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 パウロはミレトにおいて長老たちにメッセージを語りました。その内容から彼の生きざまについて知ることができます。
 第一に、主に仕えました。かつてはキリストに背き罪に仕えていた彼が回心し、キリストに仕えるようになりました。
 第二に、福音を証ししました。彼は福音を宣べ伝えるという使命を誰よりも強く自覚し、その働きに生涯をささげていました。
 第三に、自分自身に気をつけて歩みました。彼は「私をみならって下さい」と言う程に、自分自身に気をつけて周りの模範となる歩みをしていました。
 第四に、与える生き方をしました。イエス様のみことば「与える方が幸い」を実践していました。キリストの愛を本当に理解するならば、私たちは人に与えたくなるのです。
 生きざまが他の人に影響を与えます。それはごまかすことはできません。中途半端な生きざまとならないようにしましょう。主にささげ仕える生きざまこそが、本当に幸いな証しとなる生きざまなのです。

<聖書のことば>
私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。
使徒の働き20章19節

2016年2月28日日曜日

「あなたはわたしに従いなさい」

ヨハネの福音書21章15~22節
2016年2月28日 第4聖日
宣教牧師 山宮 利忠

 他の福音書の記さないヨハネのみが記す復活後の主のみわざです。ここには、イエス ・キリストの慈愛に満ちた弟子達へのお取り扱いがあります。
 その第一は、あなたは、わたしを愛しますか(15)とのおことばです。主は、ペテロをお責めにならず愛を求めてペテロの傷を癒されます。生涯主を否んだ失敗をひきずって歩ませない、キリストの深い配慮が見られます。
 第二は、わたしの羊を牧しなさい。(16)牧するということばは、羊飼いを表しますが、その意味は、お世話をするという意味です。人を漁るだけではなく養い育てる働きの為に、ペテロを再任命し、「私は、主をさえ否んだのだからもう駄目だ」と、元の漁師に戻ろうとしたペテロを、更に大切な働きへ任命します。一つの失敗を人生の失敗にさせない主の深い愛を見る事ができます。
 第三に、あなたは、わたしに従いなさい。(22)とのおことばです。ペテロは自分の弱さに打ち砕かれたかに見えますが、尚弱さを持つ人間です。人と比較する彼に、信仰とはわたしとあなたとの関係なのだと、これからの歩みの為に必要な、そして大切な事を確認する主の知恵があります。
 このような主にお仕えできる事は、何と幸いなことでしょうか。

<聖書のことば>
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
ヨハネの福音書21章22節

2016年2月21日日曜日

「信仰約束献金の恵み」

コリント人への手紙第二9章7節
2016年2月21日 第3聖日
牧師 長江忠司

 信仰約束献金とは、宣教の為に、神に約束し信仰によって献げていく献金を意味します。これは強制されてするものではありません。しかし、宣教の使命を果たしていく為に、非常に大切な献げものです。
 第一に、年間を通して計画的に宣教師を支援することができます。感情的に一時的に献げるのも悪くありませんが、それだと宣教師をしっかりと支援することはできません。
 第二に、主の働きの同労者となることができます。宣教地で働くのも日本国内で祈り献げるのも、主の目から見れば大きな違いはありません。宣教の為にささげるならば、私達も宣教師とみなされます。
 第三に、献げる者が祝福されます。神は喜んで与える人を愛して下さると書かれています。
 私は個人的に、この約束献金がとても楽しみです。主は私達の宣教に対する態度に注目しておられます。この恵みに積極的に与りましょう。

<聖書のことば>
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
コリント人への手紙第二 9章7節

2016年2月14日日曜日

「キリストの平安をあなたのものに」

ヨハネの福音書14章27節
2016年2月14日 第2聖日
牧師 長江忠司

 イエス様はここで特別な平安を与えると約束されました。平安を与えて下さる主はどのようなお方なのでしょうか。
 第一に、いつも私たちを愛し心にかけて下さるお方です。私達が理解できないような小さな所まで主は心にかけて下さっています。
 第二に、私たちの明日についてご存知であり、最善へと導いて下さるお方です。主は私たちの過去・現在・未来の全てをご存知で最善へと導かれます。
 第三に、死に解決を与えて下さるお方です。キリストを信じた者には永遠のいのちが与えられており、天国で永遠に主と共に過ごすことができます。
 第四に、みことばの約束をもって導いて下さるお方です。多くの約束をもって私たちに平安を与えようとして下さっています。
 どんなに富があり健康があったとしても、平安のない人生は空しく辛いものです。クリスチャンも主の平安を手にしていないと、心騒がせることになります。いつも主を見上げて、主の平安を心に抱きつつ歩みましょう。

<聖書のことば>
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
ヨハネの福音書14章27節

2016年2月7日日曜日

「恵みに伴う責任」

ルカの福音書12章48節
2016年2月7日 第1聖日
牧師 長江忠司

 2月は宣教月間ですので、宣教について考えましょう。恵みには責任が伴います。それ故、与えられているものを用いていく責任があります。
 第一に、人材を用いることです。主は横浜教会に多くの魂を導かれ委ねられています。それ故に、私たちはより大きなことをすることができます。まず、より多く集まって祈ることができます。また、遣わされた場所で多くの証しをすることができます。また、横浜教会から宣教師を遣わすことができます。主はそれを横浜教会に願ってはおられないでしょうか。
 第二に、経済を用いることです。主は横浜教会に多くの経済を委ねられています。それをどう用いるかです。内部のことで用いるのは簡単です。しかし主は、宣教の為に用いるようにと願われているのです。今年度の初めに、私は全ての教会員が宣教の信仰約束献金に参加していただきたい(強制ではなく自発的に)と申し上げました。多くの兄姉が参加して下さり心から感謝しています。しかしそれは私ではなく主の願いなのです。
 主は献げる兄姉をご覧になられています。喜んで宣教に参加し、主に喜ばれる歩みをしましょう。

<聖書のことば>
すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。
ルカの福音書12章48節後半

2016年1月31日日曜日

「ユダの裏切りの痛み」

マルコの福音書14章17~21節
2016年1月31日 第5聖日
牧師 長江忠司

 過越しの食事が始まりました。ユダと弟子達の霊的な鈍感さを見つつ、主が私たちに望んでおられることを確認しましょう。
 第一に、みことばを自分に適用することです。自分たちの中から裏切り者が出ると聞いた時に、彼らは「私ではないでしょう」と言いました。ユダが裏切ったのですが、彼らは謙遜に自分のこととして聞くべきでした。
 第二に、自分中心ではなく神中心の歩みをすることです。弟子たちはこの場に及んでも、誰が一番偉いかと議論していたことが他の箇所に書かれています。彼らの関心事は自分のことでした。主から受けた恵みを覚えて感謝しているならば、私たちは神中心の歩みへと変えられていきます。
 第三に、主の促しに素直に応え悔い改めることです。イエス様はユダに何度も悔い改めを迫っておられたことがわかります。しかし彼はその機会を無駄にし続けました。その結果、悲惨な結末を迎えることになったのです。私たちも悔い改めを先延ばしにして良いことは何もありません。
 皆が失敗し罪を犯すものです。大切なのはその時に、どれだけみことばに耳を傾けるかです。主の御声を聞いて素直に従い悔い改めましょう。

<聖書のことば>
まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。
マルコの福音書14章18節後半

2016年1月24日日曜日

「礼拝者として覚えるべきこと」

ヨハネの福音書4章24節
2016年1月24日 第4聖日
牧師 長江忠司

本日は牧師不在ですが、変わらずに忠実に礼拝に集って下さっている兄姉に感謝致します。礼拝者が覚えるべきことについて確認しましょう。
 第一に、一週間で最優先すべきは礼拝です。お仕事や勉強など、どうしても外せない場合もあるかと思います。その場合は別ですが、しかしそうであったとしても、礼拝に出席する最大限の努力と工夫をするべきです。私たちの為にこれ以上ない犠牲を払って下さった主のために、私たちもあらゆる犠牲を払って最高の礼拝をささげるべきです。
 第二に、礼拝の中心はみことばです。最近の教会で音楽や他のプログラムがメインとなり、みことばが短い時間に付け足しのように語られている傾向があると言われますが、それは正しい状態ではありません。みことばが中心に据えられるべきです。
 第三に、正しい礼拝は受け身ではなく献げることです。みことばを聞いて結果的に恵みを受けるのですが、そうであっても、献げることが礼拝の基本です。特に、みことばを聞くだけでなく応答するようにしましょう。 主は私たちの為にご自身をささげて下さいました。私たちも主の為に、自分の最高をささげるものでありましょう。
 正しい礼拝を献げて、主から祝福をいただきましょう。

<聖書のことば>
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
ヨハネの福音書4章24節

2016年1月17日日曜日

「過越しの食事の準備」

マルコの福音書14章12~16節
2016年1月17日 第3聖日
牧師 長江忠司

 過越しの祭りに際して、弟子たちは過越しの食事の準備をしようとしました。ここから3つの点で教えをいただきましょう。
 第一に、主のご計画は確かであることです。祭司長たちはイエス様を殺そうと決めていましたが、祭りの時期は避けようと考えていました。しかし、ユダの裏切りがあり、祭りの時にイエス様は十字架にかかり死なれることになりました。それは永遠の主のご計画でした。人の思いと異なった事が時に起こりますが、主のご計画がありそれが確かであることを覚えましょう。
 第二に、主のみことばに、わからなくても従うことです。彼らは主が言われた通りに従った時に、整えられた部屋を見出すことができました。状況が整ってから動いた訳ではなかったのです。
 第三に、主の為により良きものをささげることです。原語を見ると、主人の信仰と献身が見えてきます。私たちも主の為に惜しむのではなくて、より良きものをささげましょう。
 主は私たちの為にご自身をささげて下さいました。私たちも主の為に、自分の最高をささげるものでありましょう。

<聖書のことば>
弟子たちが出かけて行って、都に入ると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。
マルコの福音書14章16節

2016年1月10日日曜日

「霊的に成長する」

ヘブル人への手紙5章12節~6章2節
2016年1月10日 第2聖日
牧師 長江忠司

 本日は成人となる方を共にお祝いする日です。しかし全てのクリスチャンは霊的に成長し、霊的な成人となる必要があります。
 まず最初に、霊的幼子の状態について考えましょう。耳が鈍くなっています。また、神のことばの初歩を教えてもらう必要があります。また、堅い食物が食べられません。そして不安定です。これらは霊的幼子に共通してある部分であり躓きやすいのです。しかし霊的な成人はそうではなく、みことばによって対処し主に頼り、その歩みは安定しています。
 次に、どうしたら霊的な成人になることができるでしょうか。
 第一に、現状に甘んじないことです。霊的目標を持って歩むことです。
 第二に、不必要なものを捨て、必要なものをいただくことです。ここに対人関係のことが列挙されています。これらの罪を捨てていくことによって、必要なものを得ることができます。必要なものとは、主のみことばと主との交わりです。どれだけ積極的にこれらを得ようとするかが大切です。
 今年、明確な目標をもって霊的に成長させていただき、少しでもイエス様に似た者に造り変えていただきましょう。

<聖書のことば>
ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。
ヘブル人への手紙6章1節

2016年1月3日日曜日

「主の前にへりくだる」

ペテロの手紙第一5章5~6節
2016年1月3日 第1聖日
牧師 長江忠司

 主の前にへりくだる者に、主は恵みをお授けになると、聖書に一貫して教えられています。謙遜であるとはどのような事を意味するのでしょうか。
 第一に、心の貧しい状態であることです。イエス様は山上において、心の貧しい人が幸いであると語られました。それは自分の無力さを覚えて主に頼る人のことです。その様な人に主は豊かな祝福を与えられます。
 第二に、悔い改めるのに素直な心を持っていることです。主はみことばを通し、聖霊を通し、また人を通して罪を指摘されます。その時に素直に悔い改めることを主は願っておられます。
 第三に、神の栄光を求めることです。私たちはついつい自分の栄光を求めてしまいがちです。それは主の御心ではありません。自分を小さくし、主の栄光を求めることこそ、主の前に謙遜な態度なのです。
 今年、私たちが主の前に謙遜に歩むかどうかが非常に大切です。この点においても主の助けをいただき、これまで以上に謙遜さにおいて成長する者でありましょう。

<聖書のことば>
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
ペテロの手紙第一5章5節