2021年5月30日日曜日

「神の御顔を」

創世記 33章 1~11節
2021年5月30日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 ヤコブはついにエサウと再会します。その際の彼の変化に注目しましょう。
 第一に、神に明け渡しました。かつての彼は作戦を練り、したたかに行動する者でしたが、神に頼り委ね先頭に立って歩むようになりました。私たちも全能の神に明け渡し委ねて歩むことです。そうした時に私たちの内に変化があらわれます。
 第二に、神を証ししました。彼の力ではなく神が恵みを与えてくださり富むことができたと証ししたのです。私たちも同様に証しするべきです。クリスチャンの少ないこの日本で人々に証しする責任は重大です。
 第三に、神の御顔を見て感謝しました。エサウの赦しや、全てにおいて臨まれた主の恵みの御業を見て、神の御顔を見る思いでした。目には見えませんが、主は私たちにも御顔を向けてくださっています。
 苦難が続く時に、神の御顔が向けられていないように感じることがあるかもしれません。しかしそうではなく、主は常に御顔を向けてくださり、顧みておられることを覚えましょう。

<聖書のことば>
ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。
創世記 33章 10節

2021年5月23日日曜日

「祈りの格闘」

創世記 32章 21~32節
2021年5月23日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 ヤコブは兄エサウの復讐を恐れて色々と対策を取りますが、神は彼を格闘へと導かれました。それはどのような格闘だったのか学びます。
 第一に、神と一対一でしっかりと向き合うための格闘でした。まだ神よりも自分の知恵に頼っていたので、しっかりと主と向き合うように導かれました。私たちも個人的にしっかりと主と向き合うことが大切です。
 第二に、神に砕かれるための格闘でした。彼は神によりももの関節を打たれ自由が利かなくなりました。それは霊的な部分でも同じだったでしょう。私たちも主によって砕かれる経験が必要です。
 第三に、神の祝福をいただくための格闘でした。彼は神によって名前をイスラエルに変えられただけでなく、彼の内面も変えられました。この後彼は先頭に立ってエサウに近づいていきました。
 神はヤコブを格闘へと導き、その中で本当の意味での祝福を与えられました。時に主は私たちをも個人的な祈りの格闘へと導かれます。そこから逃げないで、しっかりと主と向き合い、神の祝福をいただきましょう。

<聖書のことば>
すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
創世記 32章 26節

2021年5月16日日曜日

「ヤコブの対策」

創世記 32章 1~20節
2021年5月16日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 いよいよ故郷に戻ることになったヤコブは神の使いたちを見ます。しかし、エサウが 400 人も引き連れてやって来ることを知り非常に恐れました。
 第一に、神は私たちが罪と向き合う様に導かれます。ヤコブはかつて彼が犯した罪の問題と直面しました。神は彼が自分の罪と向き合い解決するようにされたのです。主は私たちをも、自分の罪と向き合うように導かれます。
 第二に、人の知恵では解決できず、かえって恐れを増加させることです。彼は神に祈りますが自分の知恵にも頼り、どっちつかずの状態でした。私たちもそのような歩み方をしていると、恐れの中を歩むようになります。
 第三に、神の約束に信頼して、心を注ぎ出して祈ることです。苦難の中で神がいかなるお方なのかを告白し、約束に信頼し、恵みとまことに感謝し、心を注ぎ出して祈ることが大切です。
 次回学ぶところでは、神の介入があり、新たな展開を見ることになります。神に祈った後に、そのように導かれていきました。私たちもヤコブのように神の前に心を注ぎ出して祈るようにしましょう。

<聖書のことば>
どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。
創世記 32章 11節

2021年5月9日日曜日

「マリアの信仰」

ルカの福音書 1章 26~38節
2021年5月9日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 母の日において、イエス様の母マリアの信仰から学びましょう。
 第一に、神のみことばは実現すると信じました。まだ夫と一緒になっていない段階で、いと高き方の子を妊娠したと告げられました。到底信じることのできない内容でしたが、彼女はそのとおりに実現すると信じました。私たちも神のみことばがそのとおりに実現すると信じることが大切です。
 第二に、神の前に罪を認め、与えられた恵みに感謝しました。彼女は自分が卑しく罪深い者であることを自覚していました。だからこそ、神から与えられた恵みを主に感謝したのです。私たちも罪の自覚をしっかりと持ち、神からいただいた恵みに感謝するべきです。
 第三に、神に委ねる信仰を持っていました。場合によっては死刑に処せられる場面でしたが、それでも彼女はこの先のことを主に委ねました。私たちもたとえ先のことがわからなくても、主に委ねていく信仰が必要です。
マリアは我が子に罪が無かったのに、十字架につけられ殺されるという本当に辛い思いをしました。しかし、それでも忠実に歩み続けたのです。そのようなマリアの模範に倣って歩みましょう。

<聖書のことば>
マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
ルカの福音書 1章 38節

2021年5月2日日曜日

「私についてくださるお方」

創世記 31章 36~55節
2021年5月2日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 故郷に向けて密かに出発したヤコブ家族でしたが、ラバンは彼らに追いつき、ヤコブを批判しました。その彼らのやり取りから、学びましょう。
 第一に、神はすべてをご覧になられていることです。ヤコブはラバンがいかに不当な扱いをしたか訴えました。しかし主はすべてをご覧になり、介入されました。だからこそ、多くの家畜を得ることができたのです。人は僅かなものしか見ることができません。でも主はすべてを見ておられるのです。
 第二に、神は偉大な力を持ち、誠実を尽くされることです。ヤコブは「私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方」と言いました。その言葉から教えられるのは、そのお方は全てを支配されている全能の神であり、約束を誠実に果たされ、しかも必要を備え満たしてくださる神です。その主がヤコブについて歩まれていたのです。
 同じ主が私たちについてくださっています。私たちは厳しい状況に目を奪われてしまいがちですが、共にいてくださるその主にしっかり目を留めて歩みましょう。

<聖書のことば>
もし、私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです。
創世記 31章 42節