2017年3月26日日曜日

「福音にふさわしく歩む」

ピリピ人への手紙1章27~28節
2017年3月26日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 福音にふさわしく歩むようにと教えられています。それはどのような歩みの事を言うのでしょうか。
 第一に、キリストの側に立つことです。どっちつかずでいると楽ですが、中途半端となり結果的に実を結ぶことのない勿体ない歩みとなります。明確にキリストの側に立つことが必要です。
 第二に、キリストの栄光を現わす生き方をすることです。態度、言葉、証しを通してキリストを伝えて行きます。
 第三に、キリストのために戦うことです。サタンもこの世も私たちを神様に従うことを妨害してきます。ですから、主の武具を身に着けてそれらと戦う必要があるのです。 どうすればそのような歩みができるかですが、まず神の恵みにより頼むことが必要です。また、御霊によって一つとされている教会の兄姉が互いに励まし合って歩むことです。
 そうしてこそ、私たちは前進し、福音にふさわしく歩むことができます。どっちつかずではなく、福音にふさわしい歩みを致しましょう。

<聖書のことば>
ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
ピリピ人への手紙1章27節a

2017年3月19日日曜日

「神が望んでおられること」

テモテへの手紙第一2章4節
2017年3月19日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 本日は献堂記念礼拝です。神様は何を望まれているのでしょうか。
 それは、全ての魂が救われて真理を知るようになることです。多くの方が真理を知らずに彷徨い、不自由さの中で歩まれています。真理を知り救われ自由になる必要があります。その対象は全ての人です。神は全ての人を愛されて身代わりに十字架にかかり死なれました。
 そのために新たな会堂が必要になります。会堂が建てられてなされることは何でしょうか。
 第一に、多くの魂を迎えることができます。現状を維持するのであれば、新しい会堂は必要ありません。でも、より多くの魂をお迎えするためには、より大きな会堂が必要になるのです。
 第二に、神の栄光を現わすことができます。ソロモンが神殿を建てた時に主の栄光が満ちました。今もそれは同じであり、会堂を通しても主は栄光を現されるのです。
 私たちは主が望んでおられることを自分の望みとして歩みましょう。

<聖書のことば>
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
テモテへの手紙第一1章4節

2017年3月12日日曜日

「キリスト者の死生観」

ピリピ人への手紙1章21~26節
2017年3月12日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 人はどのような人生観や死生観をもって生きるかで、歩みは大きく異なってきます。パウロはここで彼の人生観、死生観について述べています。
 まず、死ぬことについては益となると考えていました。普通、人は死を嫌い避けようとするものですが、キリストを信じて救われている者は違います。死は消滅ではなく、救われている故に神と共に過ごすことのできる素晴らしい天国への入り口と捉えます。そこでキリストと永遠に共に過ごすことができる、この地上よりもはるかに勝っている場所なのです。
 次に、生きることについてはキリストだと考えました。
 第一にそれはキリストをお伝えすることです。多くの人が彷徨って人生を歩んでいる中で、真理のお方キリストをお伝えすることです。
 第二に、キリストの如く与える歩みをすることです。人は受けることを求めるものですが、イエス様は与える幸いを教えられ、また与える生涯を送られました。
 死生観が人生に大きな影響を与えます。今一度確認するようにしましょう。そして正しい死生観を持って、確かな人生を送る者でありましょう。

<聖書のことば>
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
ピリピ人への手紙1章21節

2017年3月5日日曜日

「切なる願い」

ピリピ人への手紙1章20節
2017年3月5日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 パウロが切実な思いで待ち望んでいたことは、ただキリストがあがめられることでした。彼はどうすることによって、キリストがあがめられることを願っていたのでしょうか。
 第一に、恥じることなく大胆に福音を伝えることによってです。日本ではクリスチャンは少数派ですので、福音を語るのが恥ずかしいと考えてしまいがちです。しかし救いに至る道はこの道しか無いのです。そうであれば恥じることはありません。
 第二に、自分の身によってです。クリスチャンは生きざまを通してキリストの素晴らしさを証しすることができますし、また死にざまを通して、キリストを信じて歩む人生の素晴らしさを証しすることができます。
 私たちにとっての切なる願いとは何でしょうか。それによって人生の歩み方は異なってくることでしょう。生きざまと死にざまでその人が何を切に願っているのかが明らかにされます。キリストがあがめられることを切に願い、残された人生を歩みましょう。

<聖書のことば>
それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
ピリピ人への手紙1章20節