2017年12月31日日曜日

「感謝を妨げるもの」

詩篇107篇1節
2017年12月31日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 神様は私たちに感謝することを望んでおられますが、実際感謝が少ないのではないかと反省させられます。何が感謝を妨げているのでしようか。
 第一に、当たり前と思うことです。私たちは日々多くの守りと恵みをいただいるのですが、それを当たり前と考えてしまうので神に感謝することが少ないのです。
 第二に、比較することです。人と比較すると、高慢か妬みかのどちらかに陥ってしまいます。人を見るよりも、神から与えられている賜物や神のご計画に目を留めるべきです。
 第三に、問題を見て心配することです。問題を見ていると心は騒いでしまい喜びや感謝は失われてしまいます。だからこそ、私たちの羊飼いとなられている主を見ている必要があります。そうすれば不安は解消され、平安を覚え、神に感謝しつつ歩むことができます。
 問題は外部にあるのではなく内面にあります。新しい一年、見るべきお方をしっかりと見て、神に感謝して毎日を送るようにしましよう。

<聖書のことば>
「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
その恵みはとこしえまで。」
詩篇107篇1節

2017年12月24日日曜日

「愛の日 クリスマス」

コリント人への手紙第二5章20~21節
2017年12月24日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 クリスマスは神のひとり子であるイエス・キリストの誕生を祝う日です。
 第一に、キリストの誕生は預言されていました。創造の初めに既に救いについて語られてから、多くのメシヤについての預言がなされていました。彼らは救い主がいつ頃どこでお生まれになるのか知っていたのです。
 第二に、人間はキリストを歓迎しませんでした。多くの人は自分のことで忙しく無関心であり、ある者は拒絶しました。それが救い主に対する人の態度だったのです。
 第三に、神は愛の御手を伸ばしてくださいました。神に反逆する人間に対し神の方から救いの御手を伸ばされたのです。そしてこの救いを受け入れるようにと懇願してくださっているのです。
 イエス様は私たちを愛するが故に、人と同じように歩まれて、人が受ける苦しみをも経験されました。だからこそ、私たちの救い主となることができるのです。この愛に応えて歩みましょう。

<聖書のことば>
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
コリント人への手紙第二5章20節

2017年12月17日日曜日

「喜びと寛容をもって」

ピリピ人への手紙4章4~5節
2017年12月17日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 続けてパウロはピリピ教会に対する勧めを語ります。
 第一に、いつも喜んでいることです。この教えはこれまでにも出て来ましたが、ここの強調点はいつもということです。いつも喜ぶことは人間には不可能です。この点においても、「主にあって」できることであることを覚える必要があります。
 第二に、寛容な心を全ての人に伝えることです。その根拠は主が近いからです。これは再臨が近いからという意味にも取れますし、また主は共にいて下さるからという意味にも取れます。いずれにしても、主がやがて来られることと、また主が共にいてくださることを意識するならば、色々と難しいことがあったとしても寛容をもって受け入れていくことができるのです。
 コリント書を見ますと、愛の定義として最初に寛容が教えられています。そしてイエス様は愛と寛容をもって、の地上を歩まれました。救われた私たちも主の模範に倣って、寛容をもち、また喜びをもって歩むようにしましょう。どちらでしょうか。主にあって一致と平和をつくる者は幸いです。神の子として一致と平和をつくる者となりましょう。

<聖書のことば>
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
ピリピ人への手紙4章4~5節

2017年12月10日日曜日

「一致のために」

ピリピ人への手紙4章2~3節
2017年12月10日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 ここでユウオデヤとスントケの名前を挙げて、二人が一致するようにと教えます。教会はどのように一致することが必要でしょうか。
 第一に、主にあって一致することです。人間の力で一致することは不可能です。しかし、主に強められ導かれる時に、教会は一致することができます。
 第二に、主から頂いた恵みに目を留めることです。救われた者はその名前がいのちの書に書き記されています。それがどれだけ大きな恵みであるのかを覚えることです。そうすれば、人の欠点などが小さなものと思うようになります。
 第三に、協力し合うことです。協力者よと呼び掛けられており、幾つかの解釈が考えられますが、教会全体に呼びかけていると信じます。私たちも同じ主のお体につながった家族の一員として協力して一致に努めて行くべきなのです。
 教会内で一致をつくる者と破壊する者とに分かれると言うことができます。私たちはどちらでしょうか。主にあって一致と平和をつくる者は幸いです。神の子として一致と平和をつくる者となりましょう。

<聖書のことば>
ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。
ピリピ人への手紙4章2節

2017年12月3日日曜日

「しっかり立って」

ピリピ人への手紙4章1節
2017年12月3日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 今日の箇所から、3つの点で学びましょう。
 第一に、兄姉が互いに愛し合うことです。パウロはピリピ教会に対して、「私の愛し慕う兄たち」「私の愛する人たち」と書いています。いかに彼らを愛し心を寄せていたのかがわかります。私たちも教会でその如くに兄姉を愛するべきです。
 第二に、魂を愛することです。パウロはピリピの魂が救われて共に御国に行くことを心から望んでおりました。私たちも祈り証ししている方がおられると思います。彼と同様に、魂の救いを祈り求めることが大切なのです。
 第三に、しっかりと立つことです。サタンは私たちの霊的成長を妨害して来ます。その中で主にあってしっかりと立ち続けることが必要なのです。
 世には多くの誘惑があり、神様から引き離すものは多いのです。だからこそ、主にあってしっかりと立ちましょう。そして主の御前に喜びつつ立つ者でありましょう。
 
<聖書のことば>
そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
ピリピ人への手紙4章1節

2017年11月19日日曜日

「栄光のからだへ」

ピリピ人への手紙3章21節
2017年11月19日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 前回は天の国籍に目を向けるように教えた箇所でしたが、今日の箇所では栄光のからだに目を向けさせます。
 第一に、現在の体は朽ちて行く不完全なものです。今のからだも素晴らしいものではありますが、病や老いを避けることができず、何よりも罪を犯してしまう不完全な体です。
 第二に、しかし神は栄光のからだに変えると約束してくださっています。それは罪を犯すことのないからだであり、朽ちることのない完全なからだです。
 第三に、主が再び来られる時に栄光のからだに変えていただけます。主はやがて教会を迎えるために空中にやって来られます。その時に完全なからだに変えられて引き上げられ主と共にいることになるのです。
 救われて天国に行けることだけで満足してしまっているクリスチャンが多いのかもしれません。私たちは主が来られるまで、心を整え、主に喜んでいただけるような歩みをする者でありましょう。
 
<聖書のことば>
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
ピリピ人への手紙3章21節

2017年11月12日日曜日

「子どものように」

マルコの福音書10章13~16節
2017年11月12日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様は子供の持つ特性を取り上げられて、子供のようになるように教えられました。今日の箇所から2つの点で学びましょう。
 最初に、私たちは子供を主の御元へ連れて行くべきです。主はそれを願われています。親は決してそれを妨げてはいけません。
 次に、私たちは子供の様に歩むべきです。彼らの良い特性に倣うべきです。それは何でしょうか。
 第一に、謙遜さと頼る心です。小さな子供は自分に力が無いことを自覚しているので親に頼ろうとします。私たちも自分の無力さを知って、主の前に謙遜になり主に頼るべきです。
 第二に、素直な心です。子供は言われたことをそのまま信じます。注意されたら改めます。私たちも主の言われることを疑わず素直に信じ、また従うことが大切なのです。
 成熟した歩みをするべきです。しかし、大人の様に心が高く頑なな歩みをしてはいけません。心低く素直な子供のように歩みましょう。

<聖書のことば>
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。
マルコの福音書10章15節

2017年11月5日日曜日

「我らの国籍は天に在り」

ピリピ人への手紙3章20節
2017年11月5日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 私たちはキリストを信じ救われて天に国籍を持つ者とされました。私たちはどのように生涯を歩むべきでしょうか。
 第一に、天の御国に入れていただく恵みを感謝しましょう。本来ならば永遠の地獄へ行くところを、素晴らしい御国に入れていただくことができるのです。どれ程に大きな恵みであるのかを覚え感謝しましょう。
 第二に、天に国籍のある者としてふさわしい歩みをしましょう。その自覚があるならば、ふさわしい歩みをしようとするものです。天国人としてふさわしい歩みを心掛けましょう。
 第三に、キリストが来られるのを待ち望みましょう。キリストはやがて再び来られることが教えられています。主は教会を迎えに来てくださいます。それを待ち望む歩みをしましょう。
 私たちは時にこの地上だけに国籍のあるような歩みをしてしまいがちです。そうであれば、この世の人と何ら変わらない歩みとなってしまうでしょう。そうではなくて、天に国籍のある者として歩むようにしましょう。

<聖書のことば>
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
ピリピ人への手紙3章20節

2017年10月29日日曜日

「光の中を歩め」

ヨハネの手紙第一1章5~6節
2017年10月29日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 神は光であることが書かれています。神が光であるとはどういう意味なのでしょうか。
 第一に、神は聖さで満ちておられるということです。神の中に一点の罪のしみもありません。
 第二に、神は罪を露わにされるということです。光ある所に闇は存在することができません。神は罪を露わにされ正しく取り扱われます。
 神のみこころは、私たちキリスト者が光の中を歩むことです。聖い歩みをすることです。そして私たちが光の内を歩むならどうなるでしょうか。
 第一に、交わりが祝福されます。神と人との交わりが祝福されます。
 第二に、聖められていきます。罪を告白し悔い改めていくことにより、神は私たちを聖くしてくださるのです。
 私たちは弱い者で罪を犯してしまう者です。しかしそうであっても、日々罪を告白してきよめられて、罪から遠ざかり、光の子供らしく歩むようにしましょう。

<聖書のことば>
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
ヨハネの手紙第一1章5節

2017年10月22日日曜日

「礼拝の心備え」

サムエル記第一3章10節
2017年10月22日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 本日、牧師は他教会へ出向していますが、いつも忠実に礼拝に集われている兄姉に心から感謝致します。礼拝の心備えについて、確認しましょう。
 第一に、祈りをもって備えましょう。礼拝は11時から開始しますが、実際にはその前から始まっています。前奏前から席に座り心を静め、前奏が始まったら祈るようにしましょう。
 第二に、主が私に語られることを待ち望みましょう。サムエルは言いました。「お話しください。しもべは聞いております。」そのような低い心で、主に期待して備えるならば、主はその人を特別に祝福して下さるでしょう。
 第三に、献げる心で礼拝しましょう。礼拝の基本は献げることにあります。賛美や献金を心から献げ、みことばを聞く時も、献げる心で応答するようにしましょう。
 そのように正しい心備えをもって礼拝する者を、主は豊かに祝福してくださいます。本日の礼拝も正しい心備えをもって臨みましょう。

<聖書のことば>
そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。
サムエル記第一3章10節

2017年10月15日日曜日

「賛美について」

詩篇99篇3節
2017年10月15日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 本日は秋のプレイズコンサートです。多くの賛美がささげられます。そこであらためて賛美について考えましょう。
 第一に、神への礼拝です。自分が楽しむことに重点が置かれるならば、それは正しい賛美とは言えません。私たちにとって賛美は喜びですが、世の音楽のように自分が中心となり楽しむものではありません。神への礼拝行為であると覚える必要があります。
 第二に、神をほめたたえるものです。聖なる神をほめたたえるのですから、どんなものでも良いという訳ではありません。また、人に焦点が当てられてはいけません。私たちをお救いくださった、素晴らしい主をほめたたえるのです。
 第三に、神への信仰のあかしです。賛美をとおして、主がどのようなお方であり、また私たちがそのお方をどう信じているのかをあかしするものなのです。
 主は賛美を喜ばれます。私たちはこれらのことを意識しつつ、一人でも教会全体でも、心から主をほめたたえていきましょう。

<聖書のことば>
国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。
詩篇99篇3節

2017年10月8日日曜日

「神を待ち望め」

詩篇42篇1~11節
2017年10月8日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 聖書に繰り返し、神を待ち望むべきことが教えられています。しかし私たちは待つことが苦手な者ではないでしょうか。神を待ち望むために必要なことを学びましょう。
 第一に、神の導き無くして歩めない弱い者であると自覚することです。自分に力があると考えていたら主を待ち望むことはしません。弱く無力な者であり主にこそ解決があると信じてこそ、神を待ち望むのです。
 第二に、神がどの様なお方なのかを覚え主に期待していくことです。問題を見るのではなく、偉大な神を見上げることです。
 第三に、神を忍耐をもって待ち望むことです。忍耐を働かせることなくして待ち望むことはできません。約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐なのです。
 主は最善の時に、最も良いことを行われるお方です。自分の時間軸で考えないで、主に信頼し期待し待ち望むようにしましょう。

<聖書のことば>
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
詩篇42篇5節

2017年10月1日日曜日

「キリストの十字架の敵」

ピリピへの手紙3章18~19節
2017年10月1日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 「キリストの十字架の敵」という言葉が鍵となっています。
 まず、私たちはキリストの十字架の敵として歩むべきではありません。キリストの十字架の敵とは、2つの意味が考えられます。
 一つはキリストの十字架を受け入れないことです。それを信じない、もしくはそれだけでは足りないと考えることです。
 もう一つは、自分の欲を神として歩むことです。クリスチャンであっても、キリストを疎かにして自分の欲を中心にして歩むならば、十字架の敵となり歩んでいることになります。
 次に、私たちは涙を持ってキリストを伝えて行くべきです。彼らの行き先を考えるならば、涙を持って伝えるように促されます。私たちは周りの状況に慣れてしまってはいないでしょうか。
 今月に秋の伝道集会が計画されています。永遠の滅びに向かっている人が大勢おられます。私たちは出て行って、涙を持ってキリストをお伝えする者でありましょう。

<聖書のことば>
というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
ピリピ人への手紙3章18節

2017年9月24日日曜日

「人の愛と神の愛」

ローマ人への手紙5章6~8節
2017年9月24日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 人は愛を追い求めて生きるものだと思います。人間と神の愛について考えましょう。人間の愛の特徴として、一つは条件が付いていることです。相手が条件を満たしていてこそ愛することができます。また、自己中心です。相手を愛しているようで実際は自分を愛していることが少なくありません。また、変わりやすいことです。人の愛は弱りやすく変わりやすいのです。それでは神の愛はどのようなものでしょうか。
 第一に、無条件の愛です。どのような相手でも愛されます。
 第二に、自己犠牲の愛です。神は人間を愛し救うために、ご自身の命までも差し出してくださいました。
 第三に、いつまでも変わらない愛です。相手が不真実だったとしても、変わらずに愛してくださいます。
 人の愛にすがって歩むならばいつか落胆する時がやってきます。神の愛は絶対であり変わりません。神の愛にこそ信頼して歩みましょう。

<聖書のことば>
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ローマ人への手紙5章8節

2017年9月17日日曜日

「主を恐れよ」

伝道者の書12章13節
2017年9月17日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 主を恐れるべきことが聖書に繰り返し書かれています。主を恐れるとはどういう意味なのでしょうか。
 第一に、神に対して畏敬の念を持つことです。神を神として認め、神の前に慎み深く歩むことです。
 第二に、神のみことばに従うことです。世の基準や教えではなく、神からのみことばに従うことです。
 次に、主を恐れるとどうなるのでしょうか。
 第一に、悪の道から守られます。誘惑に満ちた時代ですが、主を恐れているなら正しい道を歩むことができます。
 第二に、知恵が与えられます。
 第三に、苦しみの中で平安を持つことができます。
 主を恐れる者に祝福が与えられることが約束されています。年を重ねる毎に主を恐れなくなってしまった人物が聖書に出てきます。私たちはそうではなく、生涯主を恐れて歩むように致しましょう。

<聖書のことば>
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
伝道者の書12章13節

2017年9月10日日曜日

「私をみならう者に」

ピリピ人への手紙3章17節
2017年9月10日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 パウロはここで私を見ならう者になるように語りますが、高慢のゆえに言ったのではありません。どういう意味で彼はそのように語ったのでしょうか。
 第一に、キリスト者としての模範にならうことです。パウロはキリストの歩みにならおうとしていましたので、そんな彼の模範にならうようにと述べた訳です。特に未信者や信仰歴の浅い人は目に見える信仰者の歩みに倣うものです。私たちはそれを意識する必要があります。
 第二に、キリストの恵みを受ける姿勢にならうことです。かつてクリスチャンたちを迫害していた彼に主の恵みが注がれ、伝道者として豊かに用いられました。同様に主の恵みを受けるようにと述べた訳です。そのような主の恵みはすべての人に注がれています。
 第三に、キリストにより頼む歩みにならうことです。彼は多くの困難を経験しましたが、その中で主に頼り歩みました。私たちも同様に主に頼って歩むべきなのです。
 周りの方々への模範として、私たちも自分自身を示す者でありましょう。

<聖書のことば>
兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
ピリピ人への手紙3章17節

2017年9月3日日曜日

「霊的成長のために必要なこと」

ピリピ人への手紙3章12~16節
2017年9月3日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 パウロはクリスチャンの歩みをマラソンにたとえました。この箇所から霊的成長のために必要なことを確認しましょう。
 第一に、現状に満足しないことです。彼は多くの知識があり実績があり現状に満足することができた筈でしたがそうしませんでした。自分自身の足りなさ弱さを認め現状に満足していませんでした。
 第二に、後ろのものを忘れて前進することです。過去に主からいただいた恵みを忘れてはいけません。しかし、過去に囚われてしまうなら、それらを忘れていく必要があるのです。
 第三に、目標を目指して一心に走ることです。彼は主から冠をいただくという明確な目標を持っていました。私たちもやがて消え失せてしまうものの為ではなく、永遠に続く確かな目標をもって歩むべきなのです。
 信仰のマラソンレースは全うすることが大事です。最後の最後まで走り通す者でありましょう。

<聖書のことば>
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
ピリピ人への手紙3章12節

2017年8月27日日曜日

「礼拝の心得」

ヨハネの福音書4章24節
2017年8月27日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 礼拝はクリスチャンにとって最高の祝福です。その礼拝をささげる上での大切な心得について確認しましょう。
 第一に、犠牲を払って集まることです。旧約の時代、人々はいけにえをもって宮に集まりました。聖日の礼拝を選択する時に、何らかの犠牲が伴うかもしれません。しかしそれは礼拝に不可欠なことなのです。
 第二に、神の前での礼拝であると意識することです。説教部分だけが礼拝ではありません。前奏から既に始まっています。神の前に出ているのですから、心を静めて祈りをもって始めることです。招きが終わり最後の挨拶までがひとまとまりの礼拝であると覚えましょう。
 第三に、心からみことばをいただくことです。説教は礼拝の中心です。主が今まさに私に語っていると覚えて聞きましょう。砕かれた心でみことばをいただくならば、主が必ずその人に上からの祝福を与えてくださいます。
 本日も主の恵みによって、私たちは礼拝に集まることができました。最高の態度をもって、主に礼拝をおささげしましょう。

<聖書のことば>
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
ヨハネの福音書4章24節

2017年8月20日日曜日

「どうにかして」

ピリピ人への手紙3章10~11節
2017年8月20日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 パウロが「どうにかして」と言う程に、切なる願いとしていたことがありました。
 第一に、キリストとその復活の力を知りたいという願いです。彼はキリストを死者の中からよみがえらせた無限の力を経験したいと願っていました。私たちもキリストを知識として知るだけでなく、キリストの復活の力を経験することが大切です。
 第二に、キリストの苦しみにあずかりたいという願いです。それも祝福であると考えていました。この苦しみにあってこそ、キリストの苦しみを理解することもできます。
 第三に、自分に死に、霊的に引き上げられたいという願いです。古い自分に死に、霊的に日々新たにされて引き上げられていくことです。
 私たちはこの世的な祝福を願いますが、これらを願いとすることが足りないかもしれません。私たちもこれらを願いとして歩むようにしましょう。

<聖書のことば>
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
ピリピ人への手紙3章10~11節

2017年8月13日日曜日

「損得勘定」

ピリピ人への手紙3章4~9節
2017年8月13日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 パウロは当時のエリートであり、人間的に誇ることのできるものを多く持っていました。しかし彼の価値観は全く変えられたのです。以前は誇りとしていたものを損と思うようになりました。なぜでしょうか。
 第一に、素晴らしいキリストを知ることができるからです。キリストは一度表面的に知って終わりというお方ではありません。知れば知る程にその素晴らしがわかるようになります。
 第二に、個人的な主との関係に入れられているからです。主は全ての人の主ですが、同時に私の個人的な主です。主は個人的に私を愛し導こうとしておられます。
 第三に、主の前に義とされているからです。人間にとって最も大事なのは富でもこの世での成功でもありません。神の前に義とされることです。キリストを信じた者は義とされているのです。
 これらの素晴らしさがわかると、以前人間的に誇りとしていたものに価値を見いだせなくなります。クリスチャンは何を求めることが得で損であるのかをしっかり見極めるようにしましょう。

<聖書のことば>
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
ピリピ人への手紙3章7節

2017年8月6日日曜日

「救われている者の特徴」

ピリピ人への手紙3章2~3節
2017年8月6日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 パウロはまず、間違った教えを広める者に気をつけるように言いました。犬、悪い働き人、肉体だけの割礼の人とありますが、救われる為に割礼が必要と教えていた人を警戒するようにと言ったのです。救われるために一切の行いは必要ではありません。神の恵みにより、ただ信じるだけで救われることができます。
 次に、救われた者の特徴についてです。それは祝される為の秘訣でもあります。
 第一に、御霊によって礼拝をささげることです。形式的な礼拝ではなく御霊に導かれて砕かれた心で礼拝をささげることです。主はそのような方を祝福され整え強めてくださいます。
 第二に、キリストを誇りとし、主により頼んで歩むことです。人は何かを誇りとして歩んでおり、それに人生を導かれていきます。主を誇りとして主に信頼して歩む者こそ、祝福されることができます。
 この世のものを誇りとし頼りがちですが、本当に誇りとし頼ることができるのはお一人しかおられません。主を誇り頼りとして歩みましょう。

<聖書のことば>
神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
ピリピ人への手紙3章3節

2017年7月30日日曜日

「喜びなさい」

ピリピ人への手紙3章1節
2017年7月30日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 パウロは再び喜びなさいと語りました。その鍵となるのは「主にあって」という言葉です。なぜ主にあるならば喜べるのでしょうか。
 第一に、主はどんな時にも愛してくださっているからです。どんなに私たちが愚かであっても主は変わりなく愛してくださいます。主は罪人の私たちを愛し身代わりに死んでくださったのです。
 第二に、主はどんな時にも消えない希望を与えられているからです。彼は獄中にいましたがそれでも希望がありました。世の与える希望はやがて消えてしまうものばかりですが、主が与える希望は消えることがありません。
 第三に、主はどんな時にも共にいてくださるからです。確かに辛い試練はやって来ますが、主は必ず共にいてくださいます。その現実を覚える時に喜ぶことができるのです。
 私たちは世にあって喜びを探してしまいがちです。しかしそうではなくて、主にあって喜ぶ者でありましょう。

<聖書のことば>
最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
ピリピ人への手紙3章1節

2017年7月24日月曜日

「信仰生活で用いられるもの」

ピリピ人への手紙2章25~30節
2017年7月23日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 パウロは獄中から、テモテの前にエパフロデトを遣わすことを伝えました。この箇所から、信仰生活で用いられるものについて学びましょう。
 第一に、献身です。エパフロデトについて兄弟、同労者、戦友という3つの点で紹介されています。彼は自分自身をささげて、パウロと共に伝道の働きにあずかっていました。中途半端ではなく献身が大切です。
 第二に、心遣いです。エパフロデトが病気になった為に途中で働けなくなり、その知らせがピリピ教会に伝わりました。落胆した彼はピリピに帰ろうとしますが、そこでパウロは尊敬をもって彼を受け入れるように心遣いをしたのです。大きな事ができなくても、小さな心遣いが用いられます。
 第三に、憐みの心です。神は彼らを憐れまれたので、病気が癒されました。神が憐み深いお方であるように、私たちも周りの方に憐みの心をもって接することが大切なのです。
 私たちは主から愛と恵みと憐みをいただきました。信仰生活において、周りの方にそれらを与える者となりましょう。

<聖書のことば>
しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。
ピリピ人への手紙2章25節

2017年7月16日日曜日

「励まし手として」

ピリピ人への手紙2章19~24節
2017年7月16日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 パウロはテモテをピリピ教会に遣わしたいと言いました。今日の箇所から、神が私たちに望んでおられることについて確認しましょう。
 第一に、励まし励まされる関係を望んでおられます。パウロとテモテとピリピ教会、それぞれが互いに励まし励まされる関係にありました。教会はそのような所です。互いに励まし合って歩みましょう。
 第二に、キリストを求めて歩むことを望んでおられます。多くの人は自分のことは考えていますが、キリストについて求めようとしません。私たちクリスチャンは主の栄光を求めて歩むべきです。
 第三に、親身になって心を掛け合うことを望んでおられます。私たちは今に至るまでに、多くの方に親身になって心に掛けていただきました。誰よりも主からそうしていただいたのです。そうであれば、私たちが相手に心を掛けて励ましたり慰めて行くべきです。
 主は私たちを励ましや慰め手として用いようとされています。自分自身をささげて用いていただきましょう。

<聖書のことば>
しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。
ピリピ人への手紙2章19節

2017年7月9日日曜日

「一緒に喜んでください」

ピリピ人への手紙2章17~18節
2017年7月9日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 パウロは自分が注ぎの供え物となっても喜びますと言いました。なぜ、そのように言うことができたのでしょうか。
 第一に、主が計り知れない大きな愛を与えてくださったからです。彼はかつてクリスチャンの迫害者でしたが、主はそんな彼を愛し受け入れ、命までもささげてくださったからです
 第二に、主が希望の約束を与えてくださっているからです。イエス様は迫害される時に天での報いがあるので喜びおどるように言われました。その様な希望の約束があるからです。
 第三に、主の教会は魂の祝福こそ最も喜ぶことだからです。キリストは魂を愛され魂のために全てをささげられました。そのキリストの教会は同様に魂の救いや成長こそ、最も喜びとすべきなのです。
 私たちは何を最大の喜びとして歩んでいるのか、自分自身を点検するようにしましょう。

<聖書のことば>
あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。
ピリピ人への手紙2章18節

2017年7月2日日曜日

「つぶやかず疑わず」

ピリピ人への手紙2章14~16節
2017年7月2日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 救いの達成に努めるために、私たちがなすべきことがあります。
 第一に、つぶやかず疑わずに行うことです。二つのつぶやきが考えられます。一つは神へのつぶやきであり、神のお取り扱いへの不満です。もう一つは兄姉へのつぶやきです。不一致がありましたので互いにつぶやいていたのでしょう。それらのつぶやきは何も良いものを生み出しません。
 第二に、みことばを握りしめて歩むことです。みことばは私たちに永遠のいのちを与えます。それだけでなく、日々歩む為に必要な導きや力、平安を与えてくれるのです。このみことばを剣として日々歩むことが勝利ある歩みのために必要なのです。
 第三に、その結果、霊的に輝いた歩みができると覚えることです。みことばを心に抱きつぶやかずに歩む時に、主が私たちを霊的に輝かせて下さるのです。
 霊的成熟のために私たちがなすべきことを心にとめて歩みましょう。

<聖書のことば>
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。
ピリピ人への手紙2章14節

2017年6月25日日曜日

「神はみこころのままに」

ピリピ人への手紙2章13節
2017年6月25日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 救いの達成に努めるように語られた後で、主が私たちにどのように働いてくださるのかについて教えられています。
 第一に、主は志を与えてくださいます。主は全てのクリスチャンに志を与え成長するように導かれています。問題はその御声を聞こうとしているかと答えているかです。
 第二に、主は力を与えてくださいます。神は志だけを与えてそれで終わりにするのではなく、事を成し遂げる力をも与えてくださるのです。
 第三に、主はみこころのままに導かれます。ここは目的のままにと訳すこともできます。神は各々にみこころ、そして目的を持っておられて導かれます。私たちがその目的を正しく受け止めることが大切なのです。
 神は私たちクリスチャンが救いの達成に努めることを願っておられます。そのために志を与えてくださり、力も与えられるのです。主は私たちそれぞれにご計画を立てて下さっています。ですから、しっかりと応答して主に用いられる人生を送りましょう。

<聖書のことば>
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
ピリピ人への手紙2章13節

2017年6月18日日曜日

「天の父へ祈る」

マタイの福音書6章9節
2017年6月18日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様は弟子達に神への祈りについて教えられる際に、天の父へ祈る様に言われました。
 第一に、それは父としての神です。父親は権威をもって家族を導き、守り支える役割があります。私たちが父なる神に祈る際に、そのような父なる神に祈っていると覚える必要があります。
 第二に、天におられる完全な父です。この世の父親は不完全であり、愛において不足している部分があるかと思います。しかし、私たちが祈るのは天におられる父であり、私たちをどこまでも愛してくださっているお方です。
 第三に、私たちの父です。私の人生に個人的に関心をもってくださっている父です。私たちは個人的に神に呼びかけることができるのです。
 天の父へ祈ることができるとは何と幸いなことではないでしょうか。私たちはもっと父なる神に祈る者でありましょう。

<聖書のことば>
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
マタイの福音書6章9節

2017年6月11日日曜日

「救いの達成に努める」

ピリピ人への手紙2章12節
2017年6月11日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 ここで救いが不十分だと言われているのではありません。ピリピにいる聖徒たちへと書かれていたように、彼らは救われていました。ただ、彼らがさらに聖められていくようにと語ったのです。
 第一に、個人としてです。信仰は個人的なことですから、神様と個人的に向き合い、取り扱われ聖められていく必要があります。
 第二に、主のお体としてです。信仰は個人的なことですが、私たちは主の御心により教会につながらせていただきました。ですから、共同体として互いに励まし合い聖められていく必要があるのです。
 第三に、恐れおののいてです。神からいただいた救いの恵みを無駄にしないことであり、また畏敬の念をもって神様の恵みに応答していくことにより、聖められていく必要があるのです。
 救いの達成に努めることは、すべてのクリスチャンがなすべきことです。他人事としてではなく、共に救いの達成に努めて行きましょう。

<聖書のことば>
そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。
ピリピ人への手紙2章12節

2017年6月4日日曜日

「高く上げられたキリスト」

ピリピ人への手紙2章9~11節
2017年6月4日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 一致しなさいとの教えがされている文脈で続けて語られますが、さらに発展し、低くなられたイエス様のその後の歩みについて取り上げられます。
 第一に、神の前に低くなる時に、神は高く上げて下さいます。どこまでも低くなられたイエス様を神は高く上げられ、全ての名に勝る名を与えられました。神の取り扱いの原則は、高ぶる者を低くし、低くなる者を高く上げられるのです。
 第二に、全ての人がイエスは主であると告白する時がやって来ます。主は再び来られますが、その際には信じる人もそうでない人も、イエス様が主であると認めるようになるのです。
 第三に、神に従ってこそ、神の栄光を現わすことができます。神に従い、主と主にある兄姉を愛してこそ、主の栄光を現わすことができます。
 私たちは常に神の前での立ち位置を確認する必要があります。神の前に身を低くして歩みましょう。

<聖書のことば>
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
ピリピ人への手紙2章9節

2017年5月28日日曜日

「キリストの模範に倣って」

ピリピ人への手紙2章5~8節
2017年5月28日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 パウロはピリピ教会に一致を勧める上で、キリストの歩みの模範を取り上げました。主はどのように歩まれたのでしょうか。
 第一に、ご自分を無にされました。神の在り方に固執しようとされず、私たちを救う為に地上に来られ人となられたのです。神の在り方を捨てられました。私たちは自分の在り方に固執すると衝突が起きてきます。
 第二に、仕える者となられました。主は仕えられるお方でしたが、生涯仕える者、しもべとして歩まれました。私たちも主の模範に倣い仕えるしもべとして歩むことです。
 第三に、父なる神に従われました。ご自分の思いよりも父なるみこころに従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。私たちも主のみこころ、御教えに従って行くならば、互いに愛し合って歩むことができます。
 主があのような謙遜な生涯を送られたからこそ、私たちは救われることができました。私たちも教会で主の謙遜な模範に倣って歩みましょう。そうした結果、不一致の問題は解決され一致して歩むことができるのです。

<聖書のことば>
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
ピリピ人への手紙2章6~8節

2017年5月21日日曜日

「一致のために必要なこと」

ピリピ人への手紙2章3~4節
2017年5月21日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 パウロの宣教を支えてきた素晴らしいピリピ教会でしたが、内部には不一致の問題がありました。
 一致を乱すものは自己中心と虚栄です。私が中心となり私の考えが一番とします。そのように高慢になると、相手を排除するようになるのです。
 では一致のために必要なことは何でしょうか。
 第一に、自分の罪に目を向けることです。自分の罪に目を向けるならば、いかに愚かであり、神に頼るべき存在であるかがわかり高慢から守られます。
 第二に、他の人のことを顧みることです。他の人を認めることです。主がその人を愛され導かれていることを覚えます。そして愛の手を伸ばすことです。私たち自身、主から愛の御手を伸ばしていただいたからです。
 主は神の子供たちが互いにいがみ合っているのを喜ばれません。互いに愛し合い赦し合っているのを喜ばれます。神の前に正しい心の位置にあるのかを確認するようにしましょう。

<聖書のことば>
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
ピリピ人への手紙2章3~4節

2017年5月14日日曜日

「十字架上の第三のことば」

ヨハネの福音書19章25~27節
2017年5月14日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様は十字架上で7つのことを話されました。母の日の今日、第三のことばから学びましょう。
 第一に、主は母マリヤを労わり手を打たれました。母マリヤがイエス様の十字架にはりつけになっている姿を見るのはどれ程苦しかったでしょうか。主はマリヤを労わり今後を考え、弟子に委ねられたのです。
 第二に、主は母マリヤとの関係を進められました。母親として呼び掛けられず「女の方」と呼び掛けられました。なぜなら、イエス様はマリヤにとって救い主であられたからです。
 第三に、主は弱き者を心に掛けられました。ここは広く適用して、主は弱き者に心を掛けられたと言うことができます。十字架上でさえそのようにされたのであれば、今は尚更のこと、主は私たちを心に掛けてくださっていると言うことができるのです。
 母の日、主が与えてくださった母親に感謝し労わると同時に、より一層主との関係を確かなものとして歩みましょう。

<聖書のことば>
私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
ピリピ人への手紙2章2節

2017年5月7日日曜日

「教会の一致」

ピリピ人への手紙2章1~2節
2017年5月7日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 パウロを支援して来た素晴らしいピリピ教会に、不一致という問題がありました。
 まず、神様は教会が一致することを願っておられます。一致を保つ、同じ愛の心を持つ、心を合わせる、志を一つにする。言い方は異なりますが、全て一致するようにと教えられています。そしてパウロだけでなく、教会が一致する時に主は喜ばれるのです。
 次に、一致するために必要な4つの恵みを覚えましょう。
 第一に、励ましです。主が傍にいて常に励ましてくださいます。
 第二に、愛の慰めです。罪深い私たちの為に主は死んで下さいました。
 第三に、御霊の交わりです。助け手として共におられます。
 第四に、愛情とあわれみです。主から深い憐みをいただきました。
 私たちはこれらの恵みをいただいたからこそ、救われてこうして信仰生活を送ることができているのです。その恵みを覚えるなら、不一致から守られます。教会の一致を生み出す者となりましょう。

<聖書のことば>
私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
ピリピ人への手紙2章2節

2017年4月30日日曜日

「キリストのための苦しみ」

ピリピ人への手紙1章29~30節
2017年4月30日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 パウロはピリピのクリスチャンたちに、信仰だけではなく、キリストのための苦しみをも主から賜わっていることについて語りました。キリスト者として生きて行く上で受ける様々な苦しみは私たちをどう導くのでしょうか。
 第一に、主の御苦しみを理解するようになります。主が地上で受けられた多くの苦しみを、一端ですが理解できるようになります。
 第二に、主にのみ頼るようになります。苦しみが無いと人はなかなか神に頼ろうとしないものですが、苦しみの中ではじめて人は主を見上げ頼ろうとするのです。
 第三に、主に似せられて行くようになります。霊的に強められ整えられ、キリストに似せられて行くのです。
 主は私たちを愛しご計画をお持ちだからこそ、時に苦しみを与えられます。私たちはその苦しみ、試練を主から受けたものとして大切にし応答しましょう。苦しみは成長する良い機会なのです。

<聖書のことば>
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。
ピリピ人への手紙1章29節

2017年4月23日日曜日

「平安があるように」

ヨハネの福音書20章19~26節
2017年4月23日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 弟子達はイエス様の復活の知らせを聞いても、まだ恐れ隠れていました。平安を失っていた彼らの前に主は来られ「平安があるように」と言われたのです。平安を失った時に覚えるべきことを学びましょう。
 第一に、主が私たちの内に住み、共に歩んでくださることです。私たちの内にも聖霊は住まれています。決して離れられることはないのです。
 第二に、主が私たちの全てを御存知で導いてくださることです。その場にいなかったトマスは復活を疑いましたが、主は彼を知り彼の為に再度お越しになられました。主は私たちをもよく御存知で導いてくださいます。
 第三に、主が私たちを勝利者とならせてくださることです。誰も打ち破ることのできなかった死に勝利された主は、主を信じる私たちを圧倒的な勝利者とならせてくださるのです。
 主は私たちと共におられて、「平安があるように」と御声をかけてくださいます。主の平安をいただいて歩みましょう。

<聖書のことば>
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
ヨハネの福音書20章19節

2017年4月16日日曜日

「イースターって何だろう?」

ローマ人への手紙4章24~25節
2017年4月16日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 イースターが取り上げられるようになりましたが、その意味について理解されている方は少ないと思います。これを正しく理解するために、キリストの十字架の死と復活について知る必要があります。
 まず、キリストの十字架の死は贖い御業の完了を意味しています。罪ゆえにさばかれ地獄に入れられて当然であった私たちのために、主は身代わりに死んでくださいました。それによって、私たちを買い戻してくださったのです。それゆえに、救われる為になすべきことは、信じること以外は何も残されていないのです。
 次にキリストの復活の意味についてです。それは第一にキリストは神であることです。第二にキリストを信じる者は罪に定められないことです。第三にキリストを信じる者はやがてよみがえることです。第四に、キリストの為の奉仕に報いが与えられることです。
 イースターは復活されたキリストをほめたたえる時です。生きておられるキリストと生きた関係をもって歩みましょう。

<聖書のことば>
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
ローマ人への手紙4章25節前半

2017年4月9日日曜日

「希望を失った時に」

ヨハネの福音書20章1~18節
2017年4月9日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 墓の中にイエス様の遺体は既にありませんでした。しかし彼らは復活について理解せず希望を失っていたのです。その様な時に覚えるべきことを学びましょう。
 第一に、霊的に古い場所に戻らないようにしましょう。ペテロたちは元いた場所へと戻って行きましたが、マリヤはそこにい続けました。私たちも霊的に後退するのではなくて、主のお取り扱いの中で前進しようとすることが大事です。
 第二に、主への信頼を確かなものとしましょう。泣き悲しんでいたマリヤは主が全てを支配されている全能のお方であることを忘れていました。このような時こそ、主への信頼を確かにすることです。
 第三に、主の臨在に目を留めましょう。マリヤの後ろに主はおられました。彼女はそれに気づいておらず、悲しんでいました。私たちも主の臨在に気づかないならば、悲しみが心を支配するようになるのです。
 希望を失った時にも主は共におられます。復活の主を覚えましょう。

<聖書のことば>
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
ヨハネの福音書20章15節前半

2017年4月2日日曜日

「神に用いられる人」

ヨシュア記6章1~7節
2017年4月2日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 本日から新年度が開始されました。神に用いられる歩みをさせていただきたいと願います。そのために何が必要でしょうか。
 第一に、主にささげることです。ヨシュアはモーセの後継者となるにあたり大きな恐れがあったでしょう。しかし彼は全てを主にささげ仕えて行きました。今も同じであり、主にささげる心が大切です。
 第二に、主に従うことです。エリコと戦うにあたり、人間的には意味不明な指示が主から出されました。しかしヨシュアはそれに従って行ったのです。みことばが示された時、拒まずに従っていくことです。
 第三に、主に信頼することです。そこには強敵が住んでおり、下手をすれば攻撃され滅ぼされる危険がありました。しかし、彼らは敵よりも主に信頼して従いました。私たちも主に信頼して歩みましょう。
 新年度、昨年度と同じ状態にあることを願うのではなく、さらに神に用いられることを願いましょう。主の栄光のためにささげて行きましょう。

<聖書のことば>
あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。
ヨシュア記6章3節

2017年3月26日日曜日

「福音にふさわしく歩む」

ピリピ人への手紙1章27~28節
2017年3月26日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 福音にふさわしく歩むようにと教えられています。それはどのような歩みの事を言うのでしょうか。
 第一に、キリストの側に立つことです。どっちつかずでいると楽ですが、中途半端となり結果的に実を結ぶことのない勿体ない歩みとなります。明確にキリストの側に立つことが必要です。
 第二に、キリストの栄光を現わす生き方をすることです。態度、言葉、証しを通してキリストを伝えて行きます。
 第三に、キリストのために戦うことです。サタンもこの世も私たちを神様に従うことを妨害してきます。ですから、主の武具を身に着けてそれらと戦う必要があるのです。 どうすればそのような歩みができるかですが、まず神の恵みにより頼むことが必要です。また、御霊によって一つとされている教会の兄姉が互いに励まし合って歩むことです。
 そうしてこそ、私たちは前進し、福音にふさわしく歩むことができます。どっちつかずではなく、福音にふさわしい歩みを致しましょう。

<聖書のことば>
ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
ピリピ人への手紙1章27節a

2017年3月19日日曜日

「神が望んでおられること」

テモテへの手紙第一2章4節
2017年3月19日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 本日は献堂記念礼拝です。神様は何を望まれているのでしょうか。
 それは、全ての魂が救われて真理を知るようになることです。多くの方が真理を知らずに彷徨い、不自由さの中で歩まれています。真理を知り救われ自由になる必要があります。その対象は全ての人です。神は全ての人を愛されて身代わりに十字架にかかり死なれました。
 そのために新たな会堂が必要になります。会堂が建てられてなされることは何でしょうか。
 第一に、多くの魂を迎えることができます。現状を維持するのであれば、新しい会堂は必要ありません。でも、より多くの魂をお迎えするためには、より大きな会堂が必要になるのです。
 第二に、神の栄光を現わすことができます。ソロモンが神殿を建てた時に主の栄光が満ちました。今もそれは同じであり、会堂を通しても主は栄光を現されるのです。
 私たちは主が望んでおられることを自分の望みとして歩みましょう。

<聖書のことば>
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
テモテへの手紙第一1章4節

2017年3月12日日曜日

「キリスト者の死生観」

ピリピ人への手紙1章21~26節
2017年3月12日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 人はどのような人生観や死生観をもって生きるかで、歩みは大きく異なってきます。パウロはここで彼の人生観、死生観について述べています。
 まず、死ぬことについては益となると考えていました。普通、人は死を嫌い避けようとするものですが、キリストを信じて救われている者は違います。死は消滅ではなく、救われている故に神と共に過ごすことのできる素晴らしい天国への入り口と捉えます。そこでキリストと永遠に共に過ごすことができる、この地上よりもはるかに勝っている場所なのです。
 次に、生きることについてはキリストだと考えました。
 第一にそれはキリストをお伝えすることです。多くの人が彷徨って人生を歩んでいる中で、真理のお方キリストをお伝えすることです。
 第二に、キリストの如く与える歩みをすることです。人は受けることを求めるものですが、イエス様は与える幸いを教えられ、また与える生涯を送られました。
 死生観が人生に大きな影響を与えます。今一度確認するようにしましょう。そして正しい死生観を持って、確かな人生を送る者でありましょう。

<聖書のことば>
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
ピリピ人への手紙1章21節

2017年3月5日日曜日

「切なる願い」

ピリピ人への手紙1章20節
2017年3月5日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 パウロが切実な思いで待ち望んでいたことは、ただキリストがあがめられることでした。彼はどうすることによって、キリストがあがめられることを願っていたのでしょうか。
 第一に、恥じることなく大胆に福音を伝えることによってです。日本ではクリスチャンは少数派ですので、福音を語るのが恥ずかしいと考えてしまいがちです。しかし救いに至る道はこの道しか無いのです。そうであれば恥じることはありません。
 第二に、自分の身によってです。クリスチャンは生きざまを通してキリストの素晴らしさを証しすることができますし、また死にざまを通して、キリストを信じて歩む人生の素晴らしさを証しすることができます。
 私たちにとっての切なる願いとは何でしょうか。それによって人生の歩み方は異なってくることでしょう。生きざまと死にざまでその人が何を切に願っているのかが明らかにされます。キリストがあがめられることを切に願い、残された人生を歩みましょう。

<聖書のことば>
それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
ピリピ人への手紙1章20節

2017年2月26日日曜日

「主に喜ばれるささげもの」

ローマ人への手紙12章1節
2017年2月26日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 礼拝を中心として、私たちは主に様々なささげものをするわけですが、主に喜ばれるささげものとは何でしょうか。
 第一に、賛美と感謝です。主の御名をたたえるくちびるの果実を主にささげることが大切です。しかし実際のところ、私たちは信仰を持っていても呟くことが多く、感謝す ることが少ないのです。
 第二に、砕かれた心です。神様はささげもの以上にその人の心をご覧になられており、砕かれた心を喜ばれます。
 第三に、自分自身です。イエス様は私たちを愛し救う為に、ご自身の全てをささげて下さいました。その愛がわかれば、私たちも自分自身を全てささげたい、献身の思いに 導かれるのです。全てのクリスチャンは献身するべきだと思います。
 主は私たちのささげものを見られて、どう思われているでしょうか。たとえ小さくても弱くても構いません。主に喜ばれるささげものをする者でありましょう。

<聖書のことば>
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願い します。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささ げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。               
ローマ人への手紙12章1節

2017年2月19日日曜日

「送り出す教会」

使徒の働き13章1~3節
2017年2月19日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 本日は宣教カンファレンスで、芝山先生を通してみことばをいただきます。テーマは「誰を遣わそうか ~YBBCから宣教師を~」です。
 宣教はエルサレムから始まりましたが、その中心はアンテオケ教会へと移っていきました。アンテオケ教会はパウロやバルナバを世界各地へと送り出したのです。
 第一に、聖霊によって送り出されました。人の思いや計画ではなく、主ご自身が働かれて、働き人を選び、みこころの地へと送り出されたのです。その道程においても、聖霊が導かれて行きました。今も聖霊により、働き人を立てられ宣教へと導き送り出されます。
 第二に、教会を通して送り出されました。主は個人的にではなく、教会に送り出すよう働きかけられました。今も同じです。そして主は私たち横浜教会を通して、働き人を遣わしたいと切に願っておられます。
 宣教を支援するのも素晴らしいですが、宣教師を派遣するのはもっと素晴らしいと言うことができます。国内へ海外へ送り出すビジョンを持ちましょう。収穫の主に働き手を送ってくださるように祈りましょう。

<聖書のことば>
彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
使徒の働き13章2~3節

2017年2月12日日曜日

「目を上げて畑を見なさい」

ヨハネの福音書4章25~38節
2017年2月12日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様とサマリヤ人女性、弟子達とのやり取りから学びましょう。
 第一に、人は自分のことだけに関心が行きやすいことです。弟子達は自分たちのことばかりに関心を持っていました。しかし主は魂に関心を持たれていたのです。私たちは何に関心があるでしょうか。
 第二に、目を上げて霊的な畑を見るべきことです。なぜ、そうするべきかと言うと、魂が刈り入れるばかりになっているからであり、また、主はそれを喜ばれるからです。
 第三に、収穫の為に行動を起こすべきことです。このサマリヤ人女性はイエス様との出会いの後、水がめを置いて町へ伝えに行きました。私たちも素晴らしい救い主に出会った者として、魂の収穫の為に行動を起こすことです。証し、祈り、献金、そして宣教師を遣わすことが大切なのです。
 私たちは自分の生活の満足の為に救われたのではありません。主は私たちを通して福音を広め、一人でも多くの魂が救われるようにと願っておられるのです。ですから、目を上げて霊の畑を見るようにしましょう。

<聖書のことば>
あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
ヨハネの福音書4章35節

2017年2月5日日曜日

「信仰約束献金に参加する」

コリントへの手紙第二9章5節
2017年2月5日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様の大命令に従い、私たちは宣教の為の信仰約束献金を献げています。
 第一に、これは聖書に教えられている献金方法です。福音宣教の働きの為に計画的にあらかじめ取り分けて献げます。そうしてこそ、宣教の働きを進めて行くことができます。
 第二に、幾ら献げるかを祈り、神様と約束して献げます。この献金は強制ではありません。それぞれがよく祈り、主から示された額を主との個人的な約束の内にお献げします。
 第三に、信仰によって献げます。主がこの献金を備えてくださり、またご自身の働きの為に大いに用いてくださると信じて献げます。
 19日の宣教カンファレンス礼拝時に、更新用紙を無記名で提出していただきます。強制ではありません。ただ、私は牧師として、全ての教会員がこの恵みの業にあずかってくださるなら素晴らしいなと考えています。主の大命令に従って、宣教の働きの為に献げる者となりましょう。

<聖書のことば>
そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。
コリントへの手紙第二9章5節

2017年1月29日日曜日

「霊的戦いで力となるもの」

ピリピ人への手紙1章19節
2017年1月29日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 パウロは投獄されて束縛された状態にありましたが、それでも喜びつつ歩むことができました。その助けと力になったものは何だったのでしょうか。
 第一に、とりなしの祈りです。ピリピ教会はパウロの為に支援すると共にとりなしていました。だからこそ、福音が前進していたし、彼も守られていたのです。教会は互いにとりなし合うことが絶対的に必要です。
 第二に、キリストの御霊です。御霊は助け主であり、主のみこころへ導き、また証しする力を与えられます。御霊に満たされて力をいただくことが必要です。私たちは御霊の助けと力なしでは何もできないのです。
 第三に、魂の救いです。彼は魂の救いを通して霊的に強められました。信仰は個人的なものですが、共同体的なものでもあります。私たちは互いの為に祈り励ますことにより力を頂き歩み続けることができるのです。
 今年も霊的な戦いがあることでしょう。ですから、互いに祈り合い、御霊に導かれて歩みましょう。また、多くの魂が救いに導かれるように祈り証ししていきましょう。

<聖書のことば>
というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。
ピリピ人への手紙1章19節

2017年1月22日日曜日

「ねたみの問題の中でも」

ピリピ人への手紙1章15~18節
2017年1月22日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 投獄中のパウロを苦しめる問題が起きていました。パウロに対するねたみや党派心から伝道する人たちがいたのです。それは正しい態度ではなく彼を悲しませるものでしたがパウロは喜びました。なぜでしょうか。
 第一に、キリストが崇められることを望んでいたからです。ねたみは恐ろしいもので人間関係を破壊するものです。しかし彼はいずれにしてもキリストが宣べ伝えられ崇められることを喜びとしました。
 第二に、自分の弱さも自覚していたからです。彼は罪人の頭であると言いました。自分の中にも同様の罪があることを自覚していたことでしょう。
 第三に、神の恵みに目を留めていたからです。その人たちは伝道するのに相応しくなかったでしょうが、それは彼とても同じでした。ただ神の恵みによって用いられている。その恵みに目を留めたことでしょう。
 時に人間関係の問題の中に入れられることがあります。しかし、見るべきお方を見ているならば、パウロのように勝利して歩むことができるのです。

<聖書のことば>
すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。
ピリピ人への手紙1章18節

2017年1月15日日曜日

「かえって」

ピリピ人への手紙1章12~14節
2017年1月15日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 パウロは投獄されており、縛られた不自由な状態にありました。宣教師である彼にとって、それは耐えがたい状況だったことでしょう。しかし、それがかえって福音の前進に役立つことになりました。どのように福音は前進していったのでしょうか。
 第一に、キリストが伝えられ明らかにされました。パウロを見張る兵士たちがいましたので、パウロは彼らに福音を伝えていったのです。本来なら会うことのない人たちに毎日じっくりと伝えることができたのです。
 第二に、他の兄弟たちを強めることになりました。パウロの投獄の知らせを聞いて、逆に彼らは奮い立ったのです。彼らの信仰は強められました。
 見える所だけを見ると、落胆してしまいそうになります。でも、主の御計画は私たちの思いを超えており不思議なことをしてくださるのです。困難と思うことがかえって用いられ、最善へと導かれて行くのです。ですから、主に信頼して期待して歩むようにしましょう。

<聖書のことば>
さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
ピリピ人への手紙1章12節

2017年1月8日日曜日

「礼拝における賛美」

詩篇146篇2節
2017年1月8日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 礼拝において賛美は大変重要なものです。どんなものであっても良いという訳ではありません。
 第一に、主にささげるものであるべきです。人間が自分の為に歌ったり、自分が楽しむ為に歌うものではありません。対象は主であり、救い主に心からの感謝とほめ歌をささげます。主に栄光が帰せられ、主にお喜びいただくためのものです。
 第二に、主の聖さを感じさせるものであるべきです。人によって感じ方は異なるかもしれませんが、世の音楽のリズムや調子に合わせるものではありません。広い年代の方が聞いても違和感を感じないものであるべきです。
 第三に、主のみことばに沿った内容の賛美であるべきです。この世のラブソングと変わらない曖昧なもの等も出て来ていますが、そうではなく神のみことばを基にした内容であるべきです。
 妥協してしまいやすいのが賛美と服装です。教会によって考え方が異なっていて良いのですが、私たちはこの考え方で進みましょう。

<聖書のことば>
私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。
詩篇146篇2節

2017年1月1日日曜日

「誇りとすべきもの」

詩篇20篇7節
2017年1月1日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 人にはそれぞれ誇りとすることがあるものです。聖書は誇りとしてはならないものと誇りとすべきものについて教えています。
 第一に、自分の力です。ある者は自分の能力を誇り、持ち物を誇ります。神は高ぶる者を退けられます。
 第二に、明日についてです。私たちに与えられているのは今日だけです。私たちは主のみこころなら、新たな一日が与えられます。一日一日を感謝して主の前に誠実に歩むべきです。
 次に、誇るべきものは何でしょうか。
  第一に、自分の弱さです。弱い所にこそ、主の栄光が現れます。
  第二に、主ご自身です。私たちを愛し十字架で身代わりに死んで下さり救いを与えて下さり共に歩んで下さる主こそ、誇りとすべきです。
 何を誇りとするかによって、人生の歩みは大きく異なってきます。誇りとすべきものを間違えないようにしましょう。

<聖書のことば>
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
詩篇20篇7節