2015年2月22日日曜日

「交わりの心得」

使徒の働き20章35節
2015年2月22日 第4聖日
牧師 長江忠司

 教会は「主に呼び集まれた者の集まり」です。それゆえに、互いの交わりが非常に大切です。
 第一に、交わりは不可欠とおぼえることです。一人で信仰生活を送る事のできる者は誰もいません。互いに祈られ励まされてこそ、歩むことができます。交わることなく歩む信仰生活は危険で脆いのです。
 第二に、互いに不完全であることをおぼえることです。クリスチャンだからと言って完全な霊性を持っている人は一人もいません。皆不完全であり霊的工事中と言う事ができます。それ故、言葉や態度で罪を犯すことがあります。人だけを見ていたら、躓いてしまうことでしょう。しかしそれでも主によって召された兄姉なのです。互いに愛し合い赦し合うことが大切なのです。
 第三に、受けるよりも与えることです。主は与える方が幸いであると仰せられました。私達も受けることを期待するのではなく、与えるように努めましょう。主はその様な者を祝福で満たして下さるのです。
 横浜教会における交わりが祝福されるようにお祈りしましょう。

<聖書のことば>
主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。
使徒の働き20章35節

2015年2月15日日曜日

「魂への責任」

列王記第二 7章3~10節
2015年2月15日 第3聖日
牧師 長江忠司

 サマリヤはアラムに攻め入られ包囲されていました。ここで4人のツァラアトに冒された人たちの歩みを通して学びましょう。
 第一に、素晴らしい恵みを自分達だけのものにしていました。主が働かれたので、アラムは食料や財宝をそのままにサマリヤを逃げ去っておりました。4人は飲み食いし、財宝を持ち帰りました。彼らは素晴らしい主からの恵みを独り占めしていたのです。
 第二に、この知らせの重大さを理解していませんでした。同胞の民が飢え死にしそうになっているのに、彼らは良き知らせを伝えることなく黙っていたのです。
 第三に、責任が問われることに気づかされました。彼らは自分たちがこのまま黙っているならば、神の罰を受けることに気づかされました。それで伝えに行ったのです。
 私達も主の恵みによって救われました。祝福の内を歩ませていただいています。しかし、この知らせをどれ程伝えようとしているでしょうか。伝えなければ、主は私たちにその責任を問われるのです。

<聖書のことば>
彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。
列王記第二 7章9節

2015年2月8日日曜日

「仕える者として」

マルコの福音書9章33~37節
2015年2月8日 第2聖日
牧師 長江忠司

  イエス様と弟子たちはカペナウムに戻り、そこで主は弟子たちに尋ねられました。「道で何を論じ合っていたのですか。」その後のやり取りから、私たちにとって大切なことを学びましょう。
 第一に、幼子のように謙遜になることです。弟子たちは誰が一番偉いのか話し合っていましたが、そんな彼らに幼子の様な謙遜な者が御国で一番偉いのだと教えられました。私達も主の御前で幼子の様に謙遜に歩むべきです。
 第二に、子供を受け入れることです。それは主を受け入れることであり、父なる神を受け入れることであると教えられました。私達は主にあって子供たちを認め、受け入れ、正しく導く責任があります。
 第三に、仕える者として歩むことです。弟子たちは自分が偉くなり仕えさせる者になりたいと願いましたが、主は仕える者となるように教えられました。主はその模範を生きざまを通して示されたのです。
 私達はプライドの高い大人の様にではなく、幼子の様に謙遜に、そして仕える者として歩むように致しましょう。

<聖書のことば>
イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
マルコの福音書9章35節

2015年2月1日日曜日

「今、理解できなくても」

マルコの福音書9章30~32節
2015年2月1日 第1聖日
牧師 長江忠司

 この短い箇所から、みおしえをいただきましょう。
 第一に、世に流されずに、主のみこころを求めるべきことです。彼らは変貌の山の出来事や悪霊の追い出しの後、群衆と共に熱狂しイエス様を政治的な王としようとしていたと思われます。それで主は、あなた方は主のみこころをわかっているようにと言われました。私達も流されやすい者です。主のみこころを求める必要があります。
 第二に、真理を直視すべきことです。弟子たちはイエス様から受難の予告を再び聞いたのですが、恐くて真理から目をそらしました。私達も同様にしてしまいがちです。主が示されていることがあるなら直視して、従う必要があります。
 第三に、完全に理解できないことがあると覚えるべきことです。何故なら、主が隠されていたからです。私達も、その時は理解できなくても後でわかるようになることがあるのです。
 主は私たちの全てをご存知の上で、最善へと導いて下さっています。そのお方に信頼し委ねて歩む者でありましょう。

<聖書のことば>
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
マルコの福音書9章32節