2015年4月26日日曜日

「神の呼びかけに対して」

マルコの福音書10章17~27節
2015年4月26日 第4聖日
牧師 長江忠司

 イエス様のもとに一人の役人の青年がやって来て、どうしたら永遠のいのちを得ることができるかを尋ねました。しかし彼は結果的に主を信じることなく去って行ってしまったのです。何が悪かったのでしょうか。
 第一に、神の愛の導きに気づく心がありませんでした。主は心頑なな彼をさばくことなく、いつくしんでおられましたが、彼はその愛に気づくことがなかったのです。私達は主の愛故の導きに鈍感であってはなりません。
 第二に、神を第一とする心がありませんでした。律法を守っていると言う彼に敢えて主は富を貧しい者に与える様にと言われました。すると彼は去って行ったのです。彼の心において富が王座を占めていました。私達も何が心の王座を占めているか気を付ける必要があります。
 第三に、神に明け渡し頼る心がありませんでした。神はどんな者でも救うことがおできになるのに、そのお方に明け渡し頼る心がなかったのです。私達も自分により頼んでいるなら、その歩みは疲れてしまうのです。
 主の愛の呼びかけに対して、素直に応じ従う者でありましょう。

<聖書のことば>
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
マルコの福音書10章27節

2015年4月19日日曜日

「子どものように」

マルコの福音書10章13~16節
2015年4月19日 第3聖日
牧師 長江忠司

 イエス様は子どもを呼び寄せて、子どものようにならなければ天の御国に入ることはできないと言われました。それはどういう意味なのでしょうか。
 第一に、みことばを慕い求めることです。乳飲み子は母親の乳を慕い求めます。その如くに、神のみことばを慕い求める心が大切です。少しでも多くみことばを聞きたい、教会の集会に出席したいと思うことは、大変幸いであると言う事ができます。
 第二に、素直であることです。子どもたちは疑うことをせず、みことばをそのまま信じ受け入れます。私達も語られるみことばに対して素直に応じる者でありたいのです。
 第三に、信頼することです。子どもは親に完全に信頼しきっています。親は自分を守ってくれると信じているのです。私達も完全なる主への信頼が大切です。主は私達と共にいて下さいます。子どものように純粋に主により頼む者でありましょう。

<聖書のことば>
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。
マルコの福音書10章15節

2015年4月12日日曜日

「主の栄光の為に従い通す」

ピリピ人への手紙2章6~9節
2015年4月12日 第2聖日
牧師 長江忠司

 神の御子イエス様は人間の身代わりに十字架にかかり死なれました。その理由として、人間を愛されたからというだけではなく、父なる神の栄光を現わす為でもありました。それ故にみこころに従い通されたのです。私達はイエス様のそんな模範をいつも心に留めておく必要があります。そうした歩みをする時に、歩みが変えられて行きます。
 第一に、成熟したクリスチャンとして歩み、実を結ばせていただくことができます。霊的幼子クリスチャンは自分の思いに神様を合わせようとするものです。自分の都合の悪いことが語られると受け入れられず従いません。しかし、主の模範に倣う時に、成熟した歩みに変えられていきます。主はその様に歩む人に実を結ばせて下さるのです。
 第二に、試練に勝利させていただくことができます。主は十字架にかかられる前に非常に苦しまれましたが、最後まで従い勝利されました。私達もその模範に倣う時に、たとえ苦しくても最後まで従い通し、試練に勝利することができるのです。大切なことは、主の栄光の為に従い通すことなのです。

<聖書のことば>
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
ピリピ人への手紙2章7~8節

2015年4月5日日曜日

「キリストの復活とその意味」

コリント人への手紙第一15章12~20節
2015年4月5日 第1聖日
牧師 長江忠司

 神の御子キリストは人類の身代わりに十字架にかかり死なれました。しかし、約束の通り3日目によみがえられたのです。復活はキリスト教の非常に重要な教理であるが故に、これを否定しようとする試みが幾つもありました。盗難説、錯覚説、気絶説、幻覚説などです。しかしこれらは冷静に考えるならば、明らかに間違っていることがわかります。復活を今の時代のごとく科学的に検証することはできませんが、周りの事実から証拠づけることはできます。特に弟子たちが変えられたことです。彼らは最初逃げ隠れていましたが、迫害を恐れずにキリストを伝えるようになりました。それは復活の主と確実に出会ったからであると言う事ができます。復活の事実が意味することは何でしょうか。
 第一に主は生きて働かれることです。
 第二に、私達もよみがえるということです。
 第三に、主のおことばには完全に信頼できるということなのです。
 復活が偽りであるなら、これ程に信頼できない宗教はありません。しかし、主は復活されました。これ以上に信頼できるお方はおられないのです。復活の主をいつもおぼえて、確かな希望をもって歩みましょう。

<聖書のことば>
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
コリント人への手紙第一 15章20節