2024年4月28日日曜日

「主にあって喜びなさい」

ピリピ人への手紙 4章 1~4節
2024年 4月 28日 第4聖日
張替 道雄 インターン訓練生

 ピリピ人への手紙は「喜びの書簡」と言われ てい ます。また、パウロの獄中書簡としても知られています。彼は、キリストのゆえに捕えられていましたが、そのような中にありながら、キリストにある喜びに満ちていました。パウロのうち にあった、このキリストにある喜び、すなわち「主にある喜び」とは どのようなものでしょうか。
 第一に、それは「キリストを知る喜び」です。キリストを知り、キリストによる救いを受けたパウロは、そのすばらしさのゆえに、それまで得と思ってきたすべての ものをちりあくただと告白しています。
 第二に、それは「主のために生きる喜び」です。パウロの喜びは、 ただ「 生きるにしても死ぬにしてもキリストがあがめられること」 でした。ですから、彼は 、 自分が どのような 状況でも 喜ぶことができたのです。
 第三に、それは「とこしえに続く喜び」です。主に ある喜びは、 今も 、これから先も 、「いつも」 、 決して失われること が ありません。
 私たちも、この世の移り変わり やすい ものに 心を奪われる のではなく 、 とこしえに 変わることのない 主に 喜びを見出す者でありましょう。

<聖書のことば>
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
ピリピ人への手紙 4章 4節

2024年4月21日日曜日

「加えるべきもの(後編)」

ペテロの手紙第二 1章 5~9節
2024年 4月 21日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 あらゆる熱意を傾けて、信仰の上に加えるべきものが 7 つ教えられています。今日は残りの 4 つについて学びます。
 第一に、忍耐です。これは単なる我慢ではなく、主の約束を信じて耐え忍ぶことです。忍耐は試練の中で培われます。忍耐した先に、神様の祝福が用意されています。
 第二に、敬虔です。神を恐れ、神を愛して生きる状態のことを意味します。敬虔な歩みをするために、主のみことばに親しみ、主と祈り交わることが不可欠です。そして敬虔のための鍛錬はすべてに有益です。
 第三に、兄弟愛と愛です。私たちはどこまでも自己中心的であり、他の人を愛することにおいて非常に弱いものです。神様からいただいた愛を覚え、その愛を持って他の人を愛することが必要です。
 これらが備わる時に主に用いられ、実を結ぶ歩みをすることができます。私たちは主に頼りつつ、信仰にこれらを加えるように励みましょう。

<聖書のことば>
だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
ペテロの手紙第二 1章 5~7節

2024年4月14日日曜日

「加えるべきもの(前編)」

ペテロの手紙第二 1章 5~9節
2024年 4月 14日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 あらゆる熱意を傾けて、信仰の上に加えるべきものが 7 つ書かれています。今日はその内の3つを学びましょう。
 第一に、徳です。イエス様のご性質と考えることができます。救われて天国に行けるからそれで良いのではありません。私たちは神の栄光のために、神のご性質に似せられて行く必要があります。
 第二に、知識です。みことばを学び心に蓄えることです。そのためにはみことばに親しむ生活をしている必要があります。
 第三に、自制です。この時代、悪い情報が溢れています。気を付けないと悪い情報に心捕らわれてしまうことになります。他にも様々な点で自制が必要です。
 徳も知識も自制も、主の助けをいただかなければ、自分自身に加えることはできません。主に頼ってこそ、加えることができます。今年度、あらゆる熱意を傾けて、信仰の上にこれら3つを加えましょう。

<聖書のことば>
だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
ペテロの手紙第二 1章 5~7節

2024年4月7日日曜日

「ヨルダン川を渡る」

ヨシュア記 3章 1~17節
2024年 4月 7日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 イスラエルの民の前にはヨルダン川があり、カナンの地に入るために、そこを渡らなければなりませんでした。私たちの前にもヨルダン川があります。それは私たちの信仰の前進を妨げているものです。神様はその向こう側に祝福を用意されています。その川を渡るために必要なことについて学びましょう。
 第一に、神を恐れ、自分自身を聖別することです。聖なる神様に用いていただくために、まず神を恐れ、自分自身を聖別する必要があります。
 第二に、神が共にいて導かれると覚えることです。私たちの身代わりに十字架で死なれ、またよみがえられた主がいつも共にいて導いてくださっています。
 第三に、主の約束を信じて前進することです。彼らがヨルダン川を渡る保証はただ神のみことばにありました。彼らは信じて前進しました。私たちも神の約束を信じて前進するのです。
 それぞれの前に立ちはだかるヨルダン川を、主への信仰によって渡らせていただきましょう。

<聖書のことば>
全地の主である【主】の箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、川上から流れ下る水がせき止められ、一つの堰となって立ち止まる。」
ヨシュア記 3章 13節

2024年3月31日日曜日

「あなたを変えるイースター」

ルカの福音書 24章 13~35節
2024年 3月 31日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 先週はイエス様の受けられたユダヤとローマ裁判、十字架刑と死について学びました。今日はその続きとなります。
 週の初めの日の明け方に、主のお体に香料と香油を塗ろうと出かけましたが、主の姿はそこにはありませんでした。すると天使が、主がよみがえられたと告げたのです。彼女たちは弟子たちの所に行き報告しました。
 クレオパともう一人の弟子はエマオへ向かっていました。彼らは主が十字架で死なれたことにより希望を失っていました。そんな彼らの所に主は来られ、みことばから教え導かれたのです。そして、共に食事をしようとした際に、その方がイエス様であるとわかりました。3つのことを学びましょう。
 第一に、主は今も生きて、私たちと寄り添い歩んでくださいます。
 第二に、主は今も生きて、私たちと向き合ってくださいます。
 第三に、主は今も生きて、私たちを変えてくださいます。
 彼らは希望を失っていた状態から変えられて、希望に満ちてエルサレムへと戻りました。私たちも主と向き合い、交わり、みことばにより教えられて歩む時に、主が私たちを変えてくださるのです。この主を信じ、向き合い、頼って歩みましょう。

<聖書のことば>
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
ルカの福音書 24章 32節

2024年3月24日日曜日

「この人を見よ」

ヨハネの福音書 19章 1~18節
2024年 3月 24日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様は真夜中にユダヤの裁判を受けられて死刑が言い渡されました。次にローマの裁判にかけられ、総督ピラトはイエス様に罪が認められなかったので釈放しようと手を尽くしました。ローマの特別な鞭を打ち無残な姿となったイエス様を見せることで、彼らを納得させ釈放しようとしたのです。その際にピラトは「見よ、この人だ」と言いましたが、ユダヤ人たちはイエスを十字架につけろと叫びました。その声が勝り、死刑が確定し、イエス様は十字架にかけられ死なれたのです。この裁判でピラトが語った二つの言葉から学びましょう。
 一つは「あなたはどこから来たのか」です。あなたは何者なのだ、ということです。この問いかけは私たちにもなされています。イエス様を誰だと信じて歩んでいるでしょうか。その認識により、歩み方は異なって来ます。もう一つは「見よ、この人だ」です。それはただの人ではありませんでした。神が人となられ、私たちの身代わりに苦しみ死んでくださったお方でした。私たちはこのお方を見続けることが大切なのです。
 来聖日、イエス様の復活について学びます。私たちのために人となり、死なれ復活された主をいつも見て歩みましょう。

<聖書のことば>
イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」
マルコの福音書 19章 5節

2024年3月17日日曜日

「主を否んだペテロ」

マルコの福音書 14章 53~72節
2024年 3月 17日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様が捕らえられた際に弟子たちは逃げましたが、その後でペテロは気になりついて行きました。そこで彼は主を三度も否んでしまいました。この箇所から教訓を得たいと思います。
 第一に、主の近くでまことの光に照らされて歩むことです。以前の彼は主に従い、いつも主の近くを歩んでいました。しかしこの時は物理的にも霊的にも主から離れて歩んでいました。私たちもいつも主の近くを歩むことです。また、主の教会と近く歩むことが大切です。
 第二に、大きな隔たりは小さな隔たりから始まると覚えることです。ペテロもまさか自分が主を否定するとは思っていなかったでしょう。しかし彼は段々と強く主を否定していきました。私たちも気をつける必要があります。
 第三に、主の変わらない偉大な愛を覚えることです。鶏が二度目に鳴くのを聞いて彼は泣き崩れました。自分の情けなさを感じたこともあったでしょうが、それだけでなく主がすべてを知った上で、それでも愛してくださっていたことがわかったからではないでしょうか。
 本日の教訓を覚え、いつも主の愛を覚え、主の近くを歩みましょう。

<聖書のことば>
するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。
マルコの福音書 14章 72節

2024年3月10日日曜日

「神の時と計画」

創世記 45章 1~11節
2024年 3月 10日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 本日は献堂記念礼拝です。連続して困難を経験したヨセフの歩みから、学びましょう。
 第一に、神は時を超えて全てを見ておられることです。ヨセフは兄たちがヨセフに対しひれ伏すという不思議な夢を見ました。それが何を意味するかわからなかったでしょうが、神はすべてを見てご存知でした。その主が私たちと共に歩んでくださいます。
 第二に、神の時と計画があることです。牢から出るチャンスがありましたが、献酌官長がヨセフを忘れてしまい出ることができず、もう二年いなければなりませんでした。しかしそれは神の時であり、その後ファラオの夢を解き明かすことになりました。神の時と計画があることを覚えましょう。
 第三に、神は最善に導かれていることです。人間的に見ると最悪な展開でしたが、彼らは大飢饉の中でも養われました。神は私たちの思いを超えて、最善に導かれていると信じる必要があります。
 自分が考える時や計画に固執しないようにしましょう。全知全能の主に信頼し委ねつつ誠実に歩みましょう。

<聖書のことば>
ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。」
創世記 45章 8節

2024年3月3日日曜日

「ゲッセマネの祈り」

マルコの福音書 14章 32~42節
2024年 3月 3日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 今月 31 日はイースター・復活記念礼拝です。それまでにもう一度、イエス様の受難について学びましょう。本日はイエス様がゲッセマネで祈られた箇所から学びます。
 第一に、主は私たちの代わりに死ぬ程に悲しみ苦しまれました。父なる神様との関係が断絶されることをご存知だったからです。それは私たちを救うためでした。私たちも時に苦難にあいますが、主が私たちのためにそれ程の苦しみにあわれたことを覚えましょう。
 第二に、主は心打ち明けて祈りつつ、父なる神のみこころに従われました。主は思いを正直に打ち明けつつも、父なる神のみこころが最善であると信じて従われました。私たちも同様に祈り、みこころに従いましょう。
 第三に主は祈りによって既に勝利されていたことです。イエス様は祈られた後、動じることなるまっすぐに十字架に向かい進まれました。祈りの時点で既に勝利されていたのです。
 人生に苦難は必ずありますが、主の模範に倣って、私たちも神に祈り、勝利させていただきましょう。

<聖書のことば>
そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
マルコの福音書 14章 36節

2024年2月25日日曜日

「神のご性質にあずかる」

ペテロの手紙第二 1章 4節
2024年 2月 25日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 主のみこころは、私たちが神のご性質にあずかる者となることです。そのために2つのことを覚えましょう。
 第一に、尊く大いなる約束を心に留めることです。神様は私たちに素晴らしい約束を既に与えてくださっています。聖書の中に多くの約束が書かれています。私たちはみことばによって聖められ、変えられ、また主のみこころの内を歩むことができます。
 第二に、霊的腐敗を免れるように気をつけることです。私たちの霊的成長を妨げるものがあります。一つはこの世です。この世を支配しているのはサタンです。人が神を信じない様に働き、またクリスチャンが神から離れて歩むように誘惑するのです。もう一つは、私たちの内にある欲望であり罪です。罪を自覚し気をつけている必要があります。日々、自分の罪を自覚している人は悔い改めに導かれますし、霊的に成長して行きます。罪を自覚していない人は悔い改めることが少なく、成長することは難しいのです。
 神のご性質にあずかるという点で、完全な人は誰もおりません。日々、みことばを読み、罪を自覚して、神のご性質にあずかる者となりましょう。

<聖書のことば>
その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
ペテロの手紙第二 1章 4節

2024年2月18日日曜日

「敬虔に生きる」

ペテロの手紙第二 1章 3節
2024年 2月 18日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 ペテロの手紙第二をシリーズで学んでいます。救われた私たちがいつも覚えるべきことを3つ学びましょう。
 第一に、栄光と栄誉の神が私たちを召してくださったことです。神が私たちを選び、救いへと呼び寄せてくださいました。私たちが神に近づいたのでも、何か良いことをしたのでもありません。自分が神によって召されたことをいつも覚えて歩むことが大切です。
 第二に、いのちと敬虔をもたらす全てが与えられていることです。神のみことば、助け主である聖霊、そして教会が与えられています。そして私たちは神の栄光と栄誉へと歩むことを、人生の目的とすることが大切です。
 第三に、栄光と栄誉の神を知り、見続けることです。私たちは目の前の状況に目を捕らわれてしまいがちです。しかし、そういう時こそ、みことばにより神を知り、その神を見続けることです。そうして敬虔な歩みをすることができますし、神の栄光と栄誉のために用いられることができます。
神の栄光と栄誉のために自分自身を献げ、敬虔に歩みましょう。

<聖書のことば>
私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。
ペテロの手紙第二 1章 3節

2024年2月11日日曜日

「宣教カンファレンスと月間だけでなく」

テサロニケ人への手紙第二 3章 1節
2024年 2月 11日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 パウロの要請から、2 つのことが教えられます。
 第一に、教会の祈りが必要です。パウロは当時の最高の教育を受けた人物であり多くの経験と実績がありましたが、語る力が与えられるようにと教会に祈りを要請しました。それは宣教の働きが霊的な戦いであり常に悪魔が妨害していることと、だからこそ教会の祈りなくしてこの働きを前進させることはできないことを、彼がよく理解していたからです。
 第二に、途中で止めてはいけないことです。継続的な祈りの要請がされています。私たちは宣教カンファレンスをとおして大いに恵まれ、チャレンジをいただくでしょう。また、2 月を宣教月間として取り組み、宣教への重荷が増し加えられるでしょう。しかし、それで止めてしまっては意味が無いのです。
 私たちはこの日本で、横浜で、祈り献げ続けることを通して、宣教の働きに参加することができます。手を止めないようにしましょう。宣教カンファレンスと月間だけで満足しないようにしましょう。

<聖書のことば>
終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。
テサロニケ人への手紙第二 3章 1節

2024年2月4日日曜日

「主イエスを知ることによって」

ペテロの手紙第二 1章 1~2節
2024年 2月 4日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 本日からペテロの手紙第二の講解説教を開始いたします。冒頭の挨拶部分から学びましょう。
 第一に、自分が何者であるか自覚して歩むことです。ペテロはキリストのしもべであり使徒であると自覚していました。ここに彼の謙遜さと信仰が表われています。私たちは何者であると自覚し歩んでいるでしょうか。
 第二に、イエス・キリストは救い主であると伝えることです。彼は、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストと言いました。日本で、キリストという名前を知っていても、そのなされたことや言われたことを知っている人は少ないと思います。救われた私たちが伝える必要があります。
 第三に、主イエスを知ることにより、神の恵みと平安を受けることです。それは神の祝福の総称です。みことばを読んでキリストについて知り、また体験的に主の素晴らしさを知る程に、神様から恵みと平安をいただくことができるのです。
 尊い信仰をいただいた私たちは、素晴らしい主をますます知って恵みと平安をいただきましょう。また、主を知らない方々にお伝えしましょう。

<聖書のことば>
神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
ペテロの手紙第二 1章 2節

2024年1月28日日曜日

「神に用いられる人」

ヨシュア記 6章 1~7節
2024年 1月 28日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 私たちは救われてから、自分のために歩む人生から、神のために歩む人生へと変えられました。神に用いられる時に喜びがあります。神に用いられる人とはどのような人でしょうか。
 第一に、神に信頼する人です。神から与えられた命令は、ヨシュアにとって理解できない内容の命令だったでしょう。しかし彼は神に信頼しその通りに従いました。私たちも神に信頼して従うことが必要です。
 第二に、神から受けたビジョンを見て歩む人です。目の前の状況が悪かったとしても、幻を見て前進することです。そのような信仰者を主は豊かに用いられます。
 第三に、神に喜んで献げる人です。言われるまで待って、それから重い腰を上げて行動するのではなく、自発的に喜んで献げていく人です。そのような人を主は神の栄光のために豊かに用いられるのです。
 結局のところ、自分のための人生は何も残りません。それは空しい結果に終わります。そうではなく、神の栄光のために自分自身を献げ、主に豊かに用いていただきましょう。

<聖書のことば>
ヌンの子ヨシュアは祭司たちに呼びかけた。「契約の箱を担ぎなさい。七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を持ち、主の箱の前を進みなさい。」そして民に言った。「進んで行き、町の周りを回りなさい。武装した者たちは主の箱の前を進みなさい。」
ヨシュア記 6章 6~7節

2024年1月21日日曜日

「全知の主」

詩篇 139篇 1~6節
2024年 1月 21日 第3聖日
張替道雄インターン訓練生

 詩篇 139 篇は、筆者にとって、主がどのようなお方で、どれほど偉大なのかを、親密な関わりの中で心から賛美しています。全知の主とはどのようなお方なのでしょうか。
 第一に、全知の主は私のすべてを知っておられるということです。行動すべてを知っておられ、言葉が舌にのぼる前から既に知っておられます。ですから、神の前にはすべてが露わで、隠れることはできないのです。私たちは、日々主に知られていることを意識して歩むべきです。
 第二に、全知の主の知識は不思議で崇高であるということです。人間の計画には限界があります。しかし、全知の主は人知を遥かに超えた崇高な御計画をお持ちです。私たちは主の前にへりくだり、信頼して歩むべきです。
 第三に、全知の主を恐れ、主の命令を守ることです。私たちの行動や、考え、心に思うことさえもすべて主に知られています。しかし、いつしか全知の主を忘れ、主以外のものに恐れおののき、心騒がせていないでしょうか。
 我々が生きていく上でなすべきことは、全知の主を恐れ、主の命令を守ること以外にはありません。

<聖書のことば>
あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られます。
詩篇 139篇 2節

2024年1月14日日曜日

「生きた信仰によって歩む」

創世記 6章 5~22節
2024年 1月 14日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 ノアの生きた信仰を通して、私たちが持つべき信仰について学びましょう。
 第一に、悪い世代にあっても、神のみこころに沿って歩むことです。ノアは神のみこころに沿って歩もうとし、神と共に歩みました。今の時代はノアの時代同様に悪に満ちています。だからこそ、私たちもみことばにより神のみこころを確かめ、みこころに沿って歩むべきです。
 第二に、神の恵みを見出して歩むことです。ノアは主の目の前に恵みを見出しました。私たちも神の計り知れない恵みをいただき救われることができました。日々、主の恵みを覚え感謝して歩むことが大切です。
 第三に、神のみことばをそのまま信じて従うことです。ノアは洪水が起こると言われてもよくわからなかったことでしょう。しかし、言われた通りを信じて従い箱舟を造りました。私たちも先のことがわからなくても、みことばをそのまま信じて、その通りに従って行くことが必要です。
 新しい一年を、どのように神と向き合って歩むでしょうか。私たちもノアのように、みことばをそのまま信じて具体的に従って行く、生きた信仰によって歩みましょう。

<聖書のことば>
ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。
創世記 6章 22節

2024年1月7日日曜日

「主を恐れよ」

詩篇 34篇 8~10節
2024年 1月 7日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 人は生きて行く上で、何かを恐れて歩んでいるものです。そして悩んでいる人が多いのです。しかし聖書は繰り返し、主を恐れよと教えます。主を恐れることの意味と結果について学びましょう。
 主を恐れるとはどういうことでしょうか。一つは神を神と認め、神の前にへりくだって歩むことです。また、神が正しい裁き主であると認めて歩むことです。また、神を愛してみことばに従って歩むことです。神の愛を味わい見つめる時に、主の恵みに感謝し、主を恐れるようになります。
 次に、主を恐れるとどうなるでしょうか。多くの祝福が与えられますが、一つは罪から守られて歩むことができます。また、神の知恵が与えられ、試練に勝利して歩むことができます。また、様々な恐れから解放されて歩むことができます。
 クリスチャンでも、主をそれ程恐れないで歩むクリスチャンと、心から主を恐れて歩むクリスチャンに分かれます。主を恐れるクリスチャンを主は祝福され、その結果、歩みも大きく異なってくるのです。私たちは恵みにより新年を迎えることができました。この一年を主を心から恐れるクリスチャンとして歩みましょう。

<聖書のことば>
主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。
詩篇 34篇 9節