2016年7月31日日曜日

「恵みの御座に近づこう」

マルコの福音書15章38節
2016年7月31日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様が十字架で息をひきとられた時に幾つかの不思議な現象が起こりましたが、その一つが神殿の幕が裂けたことでした。これは神殿の聖所と至聖所を分ける幕であり、神と人との隔たりが除かれたことを表わしています。ヘブル書を見つつ、2つのことを学びましょう。
 第一に、大胆に恵みの御座に近づくべきことです。かつては罪ある人間が神に近づくことができませんでしたが、キリストの死によって、神と人とを妨げるものは無くなりました。私達は大胆に神の御前に進み出ることができます。しかも大祭司である主は、私達の苦しみや悲しみを理解し同情することがおできになります。
 第二に、全き信仰と真心をもって神に近づくべきことです。二心であってはいけません。信仰が無ければ神に喜ばれることはできないのです。信仰をもって近づく者を主は喜び、豊かに応えて下さるのです。
 この素晴らしい恵みを無駄にしてはいけません。大胆に且つ信仰をもって、恵みの御座に近づくものでありましょう。

<聖書のことば>
神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
マルコの福音書15章38節

2016年7月24日日曜日

「十字架上でのおことばを通して」

マルコの福音書15章33~37節
2016年7月24日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様は十字架につけられている間、7つのおことばを語られました。今日は4~6番目に語られたおことばについて学びましょう。
 第一は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」です。これは衝撃的な内容です。そのおことば通り、イエス様は父なる神様との関係が断絶され、神から捨てられた者となられました。私達の身代わりに神の怒りを受けられたのです。
 第二は「わたしは渇く」です。大量の血液が流れ出ると、喉が異常に渇きます。渇くことのないお方が私達の為に渇きを覚えられました。
 第三は「完了した」です。主は全人類を贖う御業を、ご自身をささげることにより完了して下さったのです。クリスチャンにとって、もはや神の前に赦されていない罪はありません。
 「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というおことばは、確かに神に見捨てられた絶望の祈りですが、同時に希望の祈りでもありました。主は私達をも、決して絶望に終わらせられることはないのです。

<聖書のことば>
そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコの福音書15章34節

2016年7月17日日曜日

「悔い改めた罪人」

ルカの福音書23章39~43節
2016年7月17日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様と共に二人の犯罪人が十字架にはりつけになりました。その内の一人は途中で悔い改めて救われたのです。救いに必要な要素について確認しましょう。
 第一に、悔い改めと信仰のみです。一切の行いは要りません。彼は犯罪者であり十字架につけられていて何も良い行いをできませんでしたが、悔い改め主を信じただけで救われることができました。
 第二に、そのままで受け入れられます。彼は道徳的にきよめられてから救われたのではなく、そのままで愛され受け入れて頂いたのです。
 次に救われた者の歩みについて確認しましょう。
 第一に、天国に行くことができます。彼はパラダイスにいることを宣言されました。私たちも間違いなく天の御国に入れて頂くことができます。
 第二に、永遠に主と共に歩みます。かつては神から離れており永遠に離れている筈の者でしたが、永遠に主と共に歩むことができるのです。
 救われるのに遅すぎる人はおりません。語られている今日信じましょう。

<聖書のことば>
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
ルカの福音書23章42節

2016年7月10日日曜日

「十字架の苦しみ」

マルコの福音書15章22~32節
2016年7月10日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様が十字架につけられた箇所から学びましょう。
 第一に、主は人類の嘲りを受けられました。まず民衆から。ユダヤ人指導者から。ローマ兵から。そして受刑者から。これが人間の神に対する態度を象徴しています。全ての人間は神に対する恐れがないのです。
 第二に、主は十字架の苦しみを受けられました。この刑は絞首刑のように一瞬にして死ぬことができるようなものではありませんでした。肉体的に恐ろしい苦しみと精神的には屈辱を味わいながら、ジワジワと死んでいったのです。主は余すところなく、その苦しみの杯を飲み干されました。
 第三に、主はとりなしの祈りをなされました。ご自分を十字架につけ命を取ろうとしている者たちの赦しの為に祈られたのです。その祈りの「彼ら」には、私たちも含まれているのです。
 神の一人子イエス様は私たちを愛して、この十字架で苦しんで死なれました。その主の御愛に対して、私たちはどう応答するでしょうか。主の為に成したことだけが残ります。このお方に献げて行きましょう。

<聖書のことば>
また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
マルコの福音書15章31節

2016年7月3日日曜日

「礼拝のメッセージについて」

2016年7月3日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 礼拝では毎回、聖書からメッセージが語られます。当たり前なことだけに認識があまくなってしまいがちです。もう一度メッセージについて確認しましょう。
 第一に、メッセージは礼拝の中心であり、いのちです。これによって教会は養われ成長していくことができます。メッセージが祝福されないなら、祝福をいただくことはできません。ですから、横浜教会の講壇が祝福されるようにお祈りいただきたいのです。
 第二に、メッセージは「私に語られている」と受け止めることです。メッセージは会衆の全員に語られるのですが、同時に一人一人に語られていると言うことができます。他人事のように聞くのではなく、「今まさに、主が私に語られている」と捉え心を開いて聞くことが大切です。
 第三に、メッセージに応答することです。主が語られた事に対して応答することを主は願っておられます。聞きっぱなしで終わるのではなく、示されたら応答するようにしましょう。
 正しい態度でメッセージを聞く人に、主は豊かな実を結ばせられます。

<聖書のことば>
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。
マタイの福音書13章23節