2015年3月29日日曜日

「わたしは渇く」

ヨハネの福音書19章28~30節
2015年3月29日 第5聖日
牧師 長江忠司

 罪が一つも無かった神の御子イエス様は、ユダヤ人指導者の不正な訴えとローマの不正な裁判により十字架にかかり死なれました。十字架上で語られた「わたしは渇く」について学びましょう。
 第一に、主は極限まで苦しみを経験されたことです。二つの側面がありました。一つは肉体的側面。ローマの鞭により全身がズタズタになり大量出血し、極限の渇きをおぼえておられました。もう一つは霊的側面です。主は父なる神との関係が断絶されるという中で、極限の霊的渇きをおぼえておられたのです。
 第二に、主は私達の身代わりとなられたことです。本来渇くことのないお方が渇き、死なれました。私達の罪を背負って身代わりとなって下さったのです。これらを踏まえて、何をすべきなのか。全ての人はキリストを信じて救われるべきです。また、信じた者は、このお方の為に献げて歩むべきです。贖いの主に栄光がありますように。

<聖書のことば>
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
ヨハネの福音書19章28節

2015年3月22日日曜日

「主の弟子のあり方」

マルコの福音書9章49~50節
2015年3月22日 第4聖日
牧師 長江忠司

 イエス様が弟子たちに語られた事を通して、主の弟子のあり方について学びましょう。
 第一に、聖められた歩みをすることです。難解な箇所ですが、火とは試練を意味していると思われます。キリスト者は試練によって聖められ塩気を付けられていくことができます。無駄な試練は一つもありません。
 第二に、塩気を保つ歩みをすることです。塩は防腐剤的な役割と味を付ける役割があります。私達は世に遣わされている者として2つの塩気ある歩みをする責任があります。
 第三に、互いに平和に歩むことです。私達は世の人と争う関係になってはいけません。主がそうであられた様に、平和を保つ歩みをする必要があるのです。
 主は私たちを豊かにお取り扱い下さいます。この節目の時期にあって、もう一度主におささげして、主に用いていただきましょう。

<聖書のことば>
塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。
マルコの福音書9章50節

2015年3月15日日曜日

「宮の奉献式」

エズラ記6章16~22節
2015年3月15日 第3聖日
牧師 長江忠司

 エルサレムに帰還したイスラエルの民が、神殿の再建を完成させ、奉献式を行いました。どの様なささげものだったのでしょうか。
 第一に、最高をもっておささげしました。ソロモンが神殿を建てた時とは比較にならない程に規模の小さなものでしたが、しかし帰還した彼らにとっては最高のものでした。私達も額ではなく、自分にできる最高をもって主に仕えささげることが大切です。
 第二に、罪の為のいけにえをささげました。彼らはこれまでの自分たちの罪を忘れずにきよめられる為にいけにえをささげたのです。私達も主の前に正しく罪を取り扱っていただく必要があります。
 第三に、過越しのいけにえをささげました。彼らの原点である過越しを思い出し、またこれまでの恵みと憐みを思い出して主に感謝をささげたのです。私達もひとえに主の恵みと憐みによって過ぎ越された者です。あらためて主の恵みをおぼえ感謝するべきです。
 私達もその様に心新たにして、主にささげる者でありましょう。

<聖書のことば>
彼らはこの神の宮の奉献式のために、牛百頭、雄羊二百頭、子羊四百頭をささげた。また、イスラエルの部族の数にしたがって、イスラエル人全体の罪のためのいけにえとして、雄やぎ十二頭もささげた。
エズラ記6章17節

2015年3月8日日曜日

「キリストのものに対して」

マルコの福音書9章41~48節
2015年3月8日 第2聖日
牧師 長江忠司

 主はここでも弟子たちに語られました。今日の箇所から、人を躓かせることと支えることについて学びたいと思います。
 まず、人を躓かせることについてです。
 第一に、大きな罪であることです。人を躓かせ罪を犯させるような者は大きな石臼を首にゆわつけられて海に投げ込まれた方がいいと言われています。それ程に大きな罪であるということです。
 第二に、それ程に一人の魂の価値は尊いということです。小さな存在であったとしても、神の目から見たら尊い存在であることを忘れてはならないのです。
 次に、主の者を支えることについてです。
 その様な者は必ず報いを受けます。主は私達の手のわざをご覧になられているからです。そして決して報いから漏れることはありません。そして弱き者に手を差し伸べることは、主に対してするのと同じことになるのです。
 教会に於いて、支え手として用いられる人は幸いです。誰であっても支え手になることができます。新年度、人を躓かせるのではなく、支える者として大きく用いて頂きましょう。

<聖書のことば>
あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。
マルコの福音書9章41節

2015年3月1日日曜日

「主のこころを知る」

マルコの福音書9章38~40節
2015年3月1日 第1聖日
牧師 長江忠司

 弟子たちは、主の名を用いて悪霊を追い出していた者に対して、仲間ではないという理由で止めるように言いました。
 第一に、主の如く、人をさばくのではなく受容することです。弟子たちはその者達を除外しようとしました。しかし、彼らも主から受け入れていただいたように、受け入れるべきだったのです。私達も受け入れられた者として、兄姉を受け入れているでしょうか。
 第二に、主のこころを知ることです。主は繰り返し互いに愛し合うように語られています。それこそが主のみこころなのです。私達は主のこころを知り、主にある兄姉として互いに愛し合うことが大切なのです。
 第三に、主の愛をいつもおぼえて歩むことです。悪霊を追い出せなかった弟子たちは妬みや不安感にかられたのかもしれません。しかし、だからこそ、主の愛をおぼえて歩むべきでした。
 私達は主から愛され受け入れられていることをおぼえる時に、互いに愛し合い受け入れ合うことができるのです。

<聖書のことば>
わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
マルコの福音書9章40節