2024年3月31日日曜日

「あなたを変えるイースター」

ルカの福音書 24章 13~35節
2024年 3月 31日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 先週はイエス様の受けられたユダヤとローマ裁判、十字架刑と死について学びました。今日はその続きとなります。
 週の初めの日の明け方に、主のお体に香料と香油を塗ろうと出かけましたが、主の姿はそこにはありませんでした。すると天使が、主がよみがえられたと告げたのです。彼女たちは弟子たちの所に行き報告しました。
 クレオパともう一人の弟子はエマオへ向かっていました。彼らは主が十字架で死なれたことにより希望を失っていました。そんな彼らの所に主は来られ、みことばから教え導かれたのです。そして、共に食事をしようとした際に、その方がイエス様であるとわかりました。3つのことを学びましょう。
 第一に、主は今も生きて、私たちと寄り添い歩んでくださいます。
 第二に、主は今も生きて、私たちと向き合ってくださいます。
 第三に、主は今も生きて、私たちを変えてくださいます。
 彼らは希望を失っていた状態から変えられて、希望に満ちてエルサレムへと戻りました。私たちも主と向き合い、交わり、みことばにより教えられて歩む時に、主が私たちを変えてくださるのです。この主を信じ、向き合い、頼って歩みましょう。

<聖書のことば>
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
ルカの福音書 24章 32節

2024年3月24日日曜日

「この人を見よ」

ヨハネの福音書 19章 1~18節
2024年 3月 24日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様は真夜中にユダヤの裁判を受けられて死刑が言い渡されました。次にローマの裁判にかけられ、総督ピラトはイエス様に罪が認められなかったので釈放しようと手を尽くしました。ローマの特別な鞭を打ち無残な姿となったイエス様を見せることで、彼らを納得させ釈放しようとしたのです。その際にピラトは「見よ、この人だ」と言いましたが、ユダヤ人たちはイエスを十字架につけろと叫びました。その声が勝り、死刑が確定し、イエス様は十字架にかけられ死なれたのです。この裁判でピラトが語った二つの言葉から学びましょう。
 一つは「あなたはどこから来たのか」です。あなたは何者なのだ、ということです。この問いかけは私たちにもなされています。イエス様を誰だと信じて歩んでいるでしょうか。その認識により、歩み方は異なって来ます。もう一つは「見よ、この人だ」です。それはただの人ではありませんでした。神が人となられ、私たちの身代わりに苦しみ死んでくださったお方でした。私たちはこのお方を見続けることが大切なのです。
 来聖日、イエス様の復活について学びます。私たちのために人となり、死なれ復活された主をいつも見て歩みましょう。

<聖書のことば>
イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」
マルコの福音書 19章 5節

2024年3月17日日曜日

「主を否んだペテロ」

マルコの福音書 14章 53~72節
2024年 3月 17日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様が捕らえられた際に弟子たちは逃げましたが、その後でペテロは気になりついて行きました。そこで彼は主を三度も否んでしまいました。この箇所から教訓を得たいと思います。
 第一に、主の近くでまことの光に照らされて歩むことです。以前の彼は主に従い、いつも主の近くを歩んでいました。しかしこの時は物理的にも霊的にも主から離れて歩んでいました。私たちもいつも主の近くを歩むことです。また、主の教会と近く歩むことが大切です。
 第二に、大きな隔たりは小さな隔たりから始まると覚えることです。ペテロもまさか自分が主を否定するとは思っていなかったでしょう。しかし彼は段々と強く主を否定していきました。私たちも気をつける必要があります。
 第三に、主の変わらない偉大な愛を覚えることです。鶏が二度目に鳴くのを聞いて彼は泣き崩れました。自分の情けなさを感じたこともあったでしょうが、それだけでなく主がすべてを知った上で、それでも愛してくださっていたことがわかったからではないでしょうか。
 本日の教訓を覚え、いつも主の愛を覚え、主の近くを歩みましょう。

<聖書のことば>
するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。
マルコの福音書 14章 72節

2024年3月10日日曜日

「神の時と計画」

創世記 45章 1~11節
2024年 3月 10日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 本日は献堂記念礼拝です。連続して困難を経験したヨセフの歩みから、学びましょう。
 第一に、神は時を超えて全てを見ておられることです。ヨセフは兄たちがヨセフに対しひれ伏すという不思議な夢を見ました。それが何を意味するかわからなかったでしょうが、神はすべてを見てご存知でした。その主が私たちと共に歩んでくださいます。
 第二に、神の時と計画があることです。牢から出るチャンスがありましたが、献酌官長がヨセフを忘れてしまい出ることができず、もう二年いなければなりませんでした。しかしそれは神の時であり、その後ファラオの夢を解き明かすことになりました。神の時と計画があることを覚えましょう。
 第三に、神は最善に導かれていることです。人間的に見ると最悪な展開でしたが、彼らは大飢饉の中でも養われました。神は私たちの思いを超えて、最善に導かれていると信じる必要があります。
 自分が考える時や計画に固執しないようにしましょう。全知全能の主に信頼し委ねつつ誠実に歩みましょう。

<聖書のことば>
ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。」
創世記 45章 8節

2024年3月3日日曜日

「ゲッセマネの祈り」

マルコの福音書 14章 32~42節
2024年 3月 3日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 今月 31 日はイースター・復活記念礼拝です。それまでにもう一度、イエス様の受難について学びましょう。本日はイエス様がゲッセマネで祈られた箇所から学びます。
 第一に、主は私たちの代わりに死ぬ程に悲しみ苦しまれました。父なる神様との関係が断絶されることをご存知だったからです。それは私たちを救うためでした。私たちも時に苦難にあいますが、主が私たちのためにそれ程の苦しみにあわれたことを覚えましょう。
 第二に、主は心打ち明けて祈りつつ、父なる神のみこころに従われました。主は思いを正直に打ち明けつつも、父なる神のみこころが最善であると信じて従われました。私たちも同様に祈り、みこころに従いましょう。
 第三に主は祈りによって既に勝利されていたことです。イエス様は祈られた後、動じることなるまっすぐに十字架に向かい進まれました。祈りの時点で既に勝利されていたのです。
 人生に苦難は必ずありますが、主の模範に倣って、私たちも神に祈り、勝利させていただきましょう。

<聖書のことば>
そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
マルコの福音書 14章 36節