2016年8月28日日曜日

「重荷を主に委ねよ」

詩篇55篇1~23節
2016年8月28日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 ダビデは悩みと苦しみの中にありましたが主に重荷を委ねることの素晴らしさを語りました。何故、主に重荷を委ねるべきなのでしょうか。
 第一に主は私達を苦しみから救い出して下さるからです。ダビデはこれまでに主によって救い出された経験から、その確信がありました。主は十字架にかかり私達を救い出されたように、救い出して下さいます。
 第二に主が私達のことを心配して下さるからです。私達は将来のことを考えると恐れ心配してしまう者です。しかし主は積極的に私達に関与し支えて下さるのです。
 第三に主は私達の全てを益として下さるからです。問題だけを見ると私達は混乱してしまいますが、主は最終的な全体像をご存知の上で問題を与えられています。
 主は全て疲れている方に、救いの手をのべておられます。私達はいつまでも自分で重荷を背負っていないで、全ての重荷を代わりに背負って下さる主におゆだねして、平安と喜びの内を歩ませて頂きましょう。

<聖書のことば>
あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
詩篇55篇22節

2016年8月21日日曜日

「空の墓」

マルコの福音書16章1~8節
2016年8月21日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様が葬られて3日目、墓における出来事が記されています。
 第一に、女性たちが主の御そば近くへ行こうとしました。マリヤたちは安息日が終わり日曜日の朝に墓へと向かいました。主の為に何かさせて頂きたいという切なる思いがあったからでした。
 第二に、主は死に打ち勝たれました。ローマにより墓は封印され兵士がついて番がされていました。しかし主はその様な一切のものをはねのけ死に打ち勝たれたのです。主は権威あるお方であり、このお方にできないことは何一つありません。
 第三に、墓の中は空になっていました。彼女たちは主の遺体が墓にあると信じていました。しかし御使いは「ここにはおられません」と彼女たちに告げたのです。主は生きて墓の外へ出られていました。
 私達が信じているのは、死んだままのお方ではありません。今も生きておられる全能の力をお持ちのお方です。墓の中に主を見出そうとする信仰ではなく、生きておられる主に信頼する信仰で歩みましょう。

<聖書のことば>
「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
マルコの福音書16章6節

2016年8月14日日曜日

「イエス様の埋葬を通して」

マルコの福音書15章42~47節
2016年8月14日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様の埋葬を通して教えをいただきましょう。
 第一に、聖書のみことばが成就しました。骨が折られないこと、突き刺されたこと、墓に埋葬されることなど、その他にも多くの点で預言されていたみことばが成就しました。その事実からも、みことばに間違いは無く完全に信頼することができることがわかります。
 第二に、心を動かされ一歩を踏み出した人たちがいました。アリマタヤのヨセフとニコデモです。彼らはまず、明確な立場を取りました。それまでは隠れて信仰を守っていましたが、公に立場を表明しました。次に、自分の持てる最高を献げました。ヨセフは墓を、ニコデモは高価で大量の没薬とアロエを混ぜたものを献げたのです。主が私達の為に献げられたものを理解する時に、私たちは心動かされて一歩を踏み出し献げるようになるのです。
 ヨセフとニコデモはここぞという時に決心し一歩を踏み出しました。私たちも同様に一歩を踏み出す者でありましょう。

<聖書のことば>
アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。
マルコの福音書15章43節

2016年8月7日日曜日

「十字架の周りにいた人たち」

マルコの福音書15章36~41節
2016年8月7日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 イエス様が十字架で死なれた時に、その周りにいた人たちを通して教えをいただきましょう。
 第一に、主を傍観する人です。彼らはイエス様のおことばを聞いて、エリヤがやって来ると考えたようです。それで、全人類の身代わりになられている主を興味本位で傍観しただけでした。
 第二に、主を認めた人です。ローマの百人隊長はイエス様を十字架につける指揮をした人物だったでしょうが、その様子を見る中で思いが変えられたのでしょう。この方はまことに神の子であったと言いました。
 第三に、主に最後まで従う人です。身の危険が及ぶ可能性があったにもかかわらず、彼女たちは十字架までも従っていました。たとい自分に苦しみが及ぼうとも主の道から離れない。それこそが本物の信仰です。
 主は私たちの為に最後まで十字架で苦しんで下さいました。信仰生活の中で色々な事が起きて来ますが、最後の最後まで信仰を守り通す者でありましょう。

<聖書のことば>
イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。
マルコの福音書15章41節