2020年11月29日日曜日

「騙されたヤコブ」

創世記29章1~27節
2020年11月29日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 ヤコブは兄エサウから逃れて一人で旅立ち、母の故郷であるハランに着くことができました。そこでの出来事から学びます。
 第一に、神は摂理をもって導かれます。彼がハランに着いた時に、そこに母の兄ラバンを知っている人がおり、さらにラケルがやって来ました。すべては偶然ではなく、神が摂理をもって導いておられました。
 第二に、神は私たちを愛し、正しく取り扱ってくださいます。一つは、主は人に罪を気づかせられることです。ヤコブはラケルと結婚したいと申し出ますが、ラバンに騙されてしまいました。しかし彼は自分も同じ罪を犯したことを思い出したでしょう。もう一つは、主は痛みをとおして私たちを聖められることです。彼はラバンからもう 7 年働くように言われて働くことになりました。騙される人の気持ちがよくわかったことでしょう。主は痛みをとおして私たちを整え聖めて用いてくださるのです。
 私たちの歩みにも主は介入してくださいます。そして苦しみ痛みをとおして私たちを整え聖めて、用いてくださることを忘れないようにしましょう。

<聖書のことば>
朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「あなたは私に何ということをしたのですか。私はラケルのために、あなた に仕えたのではありませんか 。なぜ、私をだましたのですか。」
創世記28章27節

2020年11月22日日曜日

「信仰のベテルに」

創世記28章16~22節
2020年11月22日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 一人で母の故郷へ出かけたヤコブは、豊かな神の臨在を知り、神の約束が自分に与えられていることを知りました。その際に、彼はどのように応答したのかを学びます。そこから、私たちが主の恵みに触れた時に、どう応答すべきかを教えをいただきましょう。
 第一に、神を恐れることです。彼は偉大な神の臨在に触れて、畏敬の念を持ちました。これは神の前で人間が取るべき正しい態度です。そして神を恐れる者に神の祝福は豊かに与えられます。
 第二に、信仰の原点と位置付けて大切にすることです。彼はその場所を神の家、ベテルと名付け大切にしました。私たちも信仰の原点の場所を覚え大切にして歩むことが必要です。
 第三に、神に献げることです。彼は神に献げることを誓います。神の恵みに触れると、応答し神に献げたくなるのです。
 私たちは神の前にどのような応答を持って歩んでいるでしょうか。信仰の原点を覚え、神を恐れつつ献げる者でありましょう。

<聖書のことば>
翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。
創世記28章18~19節

2020年11月15日日曜日

「子どものように」

マルコの福音書10章13~16節
2020年11月15日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 子供たちをイエス様のところに連れて来るのを妨げた弟子たちに対して、イエス様は憤られました。そして子供たちのように神の国を受け入れる必要を語られたのです。それはどういう心なのでしょうか。
 第一に、主と主のみことばを素直に受け入れる心です。小さな子供たちは言われることを素直に受け入れます。そのように人は主と主の言われることを素直に受け入れなければ救われることはできませんし、祝福されることもありません。
 第二に、神の家です。私たちは救われて神の子とされ、神の家族の一員とされました。主は私たち家族が互いに愛し合うことを願われています。
 第二に、へりくだって主に全面的に頼る心です。小さな子供は自分が無力であることを認め、全面的に親に頼って生活しています。そのように私たちも自分の無力さを認めて全面的に主に頼ることが大切です。主に頼って歩んでいるかどうかは、みことばや祈りへの姿勢に表れます。
 私たちは霊的に成熟し大人になる必要があります。しかし主の前では私たちは幼子である必要があるのです。幼子のように素直に主に聞き従い、より頼んで歩みましょう。

<聖書のことば>
まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。
マルコの福音書10章15節

2020年11月8日日曜日

「教会とは」

コリント人への手紙第一 12章25~27節
2020年11月8日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 コロナの関係でできませんでしたが、本日バプテスマ式を行います。バプテスマは救われた者が主の御命令に従って受けるものであり、これを受けて教会に属します。その教会とは何であるのかを確認しましょう。
 第一に、キリストの体です。頭はキリストであり、私たちはその体の各器官です。互いにつながっており、切っても切れない関係にあります。主が呼び出された集まりであり、お互いに大切な存在なのです。
 第二に、神の家です。私たちは救われて神の子とされ、神の家族の一員とされました。主は私たち家族が互いに愛し合うことを願われています。
 第三に、実を結ぶところです。キリストとキリストの体である教会にとどまってこそ、私たちは霊的に実を結ぶことができます。教会を離れて実を結ぶことはできません。ですから、実を結ぶ信仰生活を意識して歩むことが必要です。
 主は御計画の中で、私たちをこの横浜教会へと導きつながらせてくださいました。バプテスマを受けた日を思い出し、もう一度原点に戻って、主と教会に仕えていきましょう。

<聖書のことば>
あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
コリント人への手紙第一 12章27節

2020年11月1日日曜日

「オンライン礼拝の危険」

ヘブル人への手紙 12章25~27節
2020年11月1日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 新型コロナウイルス感染症蔓延という緊急事態で、オンライン礼拝が豊かに用いられました。また今も、ご病気の方や求道者に用いられており心から感謝しています。しかし、オンライン礼拝は聖書が教える礼拝とは程遠いものであることを覚える必要があります。聖書は次のことを強調しています。
 第一に、犠牲を払うことです。旧約の時代犠牲を払って礼拝が献げられました。なによりイエス様は十字架で犠牲を払ってくださいました。
 第二に、互いに交わることです。初代教会は互いによく交わりました。また、互いに愛し合い励まし合うように、繰り返し教えられています。
 第三に、互いに仕え合うことです。主が私たちを教会につながらせてくださいました。それは互いに仕え合い、主の栄光を現すためです。
 みことばを聞くだけならオンライン礼拝はその必要を満たしますが、礼拝はみことばを聞くことだけではないのです。気づかない内に、集まろうとする気持ちが弱まり、その必要を感じなくなっていきます。オンラインでの礼拝はあくまでも緊急事態のためのものであると覚えましょう。私たちはこれからも主の教会に集まり、兄姉と心を合わせて礼拝を献げましょう。

<聖書のことば>
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
ヘブル人への手紙 10章25節