2017年10月29日日曜日

「光の中を歩め」

ヨハネの手紙第一1章5~6節
2017年10月29日 第5聖日
牧師 長江 忠司

 神は光であることが書かれています。神が光であるとはどういう意味なのでしょうか。
 第一に、神は聖さで満ちておられるということです。神の中に一点の罪のしみもありません。
 第二に、神は罪を露わにされるということです。光ある所に闇は存在することができません。神は罪を露わにされ正しく取り扱われます。
 神のみこころは、私たちキリスト者が光の中を歩むことです。聖い歩みをすることです。そして私たちが光の内を歩むならどうなるでしょうか。
 第一に、交わりが祝福されます。神と人との交わりが祝福されます。
 第二に、聖められていきます。罪を告白し悔い改めていくことにより、神は私たちを聖くしてくださるのです。
 私たちは弱い者で罪を犯してしまう者です。しかしそうであっても、日々罪を告白してきよめられて、罪から遠ざかり、光の子供らしく歩むようにしましょう。

<聖書のことば>
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
ヨハネの手紙第一1章5節

2017年10月22日日曜日

「礼拝の心備え」

サムエル記第一3章10節
2017年10月22日 第4聖日
牧師 長江 忠司

 本日、牧師は他教会へ出向していますが、いつも忠実に礼拝に集われている兄姉に心から感謝致します。礼拝の心備えについて、確認しましょう。
 第一に、祈りをもって備えましょう。礼拝は11時から開始しますが、実際にはその前から始まっています。前奏前から席に座り心を静め、前奏が始まったら祈るようにしましょう。
 第二に、主が私に語られることを待ち望みましょう。サムエルは言いました。「お話しください。しもべは聞いております。」そのような低い心で、主に期待して備えるならば、主はその人を特別に祝福して下さるでしょう。
 第三に、献げる心で礼拝しましょう。礼拝の基本は献げることにあります。賛美や献金を心から献げ、みことばを聞く時も、献げる心で応答するようにしましょう。
 そのように正しい心備えをもって礼拝する者を、主は豊かに祝福してくださいます。本日の礼拝も正しい心備えをもって臨みましょう。

<聖書のことば>
そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。
サムエル記第一3章10節

2017年10月15日日曜日

「賛美について」

詩篇99篇3節
2017年10月15日 第3聖日
牧師 長江 忠司

 本日は秋のプレイズコンサートです。多くの賛美がささげられます。そこであらためて賛美について考えましょう。
 第一に、神への礼拝です。自分が楽しむことに重点が置かれるならば、それは正しい賛美とは言えません。私たちにとって賛美は喜びですが、世の音楽のように自分が中心となり楽しむものではありません。神への礼拝行為であると覚える必要があります。
 第二に、神をほめたたえるものです。聖なる神をほめたたえるのですから、どんなものでも良いという訳ではありません。また、人に焦点が当てられてはいけません。私たちをお救いくださった、素晴らしい主をほめたたえるのです。
 第三に、神への信仰のあかしです。賛美をとおして、主がどのようなお方であり、また私たちがそのお方をどう信じているのかをあかしするものなのです。
 主は賛美を喜ばれます。私たちはこれらのことを意識しつつ、一人でも教会全体でも、心から主をほめたたえていきましょう。

<聖書のことば>
国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。
詩篇99篇3節

2017年10月8日日曜日

「神を待ち望め」

詩篇42篇1~11節
2017年10月8日 第2聖日
牧師 長江 忠司

 聖書に繰り返し、神を待ち望むべきことが教えられています。しかし私たちは待つことが苦手な者ではないでしょうか。神を待ち望むために必要なことを学びましょう。
 第一に、神の導き無くして歩めない弱い者であると自覚することです。自分に力があると考えていたら主を待ち望むことはしません。弱く無力な者であり主にこそ解決があると信じてこそ、神を待ち望むのです。
 第二に、神がどの様なお方なのかを覚え主に期待していくことです。問題を見るのではなく、偉大な神を見上げることです。
 第三に、神を忍耐をもって待ち望むことです。忍耐を働かせることなくして待ち望むことはできません。約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐なのです。
 主は最善の時に、最も良いことを行われるお方です。自分の時間軸で考えないで、主に信頼し期待し待ち望むようにしましょう。

<聖書のことば>
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
詩篇42篇5節

2017年10月1日日曜日

「キリストの十字架の敵」

ピリピへの手紙3章18~19節
2017年10月1日 第1聖日
牧師 長江 忠司

 「キリストの十字架の敵」という言葉が鍵となっています。
 まず、私たちはキリストの十字架の敵として歩むべきではありません。キリストの十字架の敵とは、2つの意味が考えられます。
 一つはキリストの十字架を受け入れないことです。それを信じない、もしくはそれだけでは足りないと考えることです。
 もう一つは、自分の欲を神として歩むことです。クリスチャンであっても、キリストを疎かにして自分の欲を中心にして歩むならば、十字架の敵となり歩んでいることになります。
 次に、私たちは涙を持ってキリストを伝えて行くべきです。彼らの行き先を考えるならば、涙を持って伝えるように促されます。私たちは周りの状況に慣れてしまってはいないでしょうか。
 今月に秋の伝道集会が計画されています。永遠の滅びに向かっている人が大勢おられます。私たちは出て行って、涙を持ってキリストをお伝えする者でありましょう。

<聖書のことば>
というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
ピリピ人への手紙3章18節